魔法少女
バイオレットグリーン
「新人」舞台脚本家、望月智充のお仕事
文責:かっきい
はじめに
「魔法少女バイオレットグリーン」は、1998年8月12〜16日に、東京、下北沢の「下北沢OFF-OFFシアター」という小劇場で、「ぽちっとなプロデュース」という演劇ユニットによって、公演されたお芝居です。
企画は、声優の矢部雅史さん(元気プロデュース所属)。矢部さんは、声優であると同時に、肝付兼太さん主宰の劇団「21世紀FOX」で活躍している舞台俳優でもあります。その矢部さんが、初めて自分で主宰されたのが、「ぽちっとなプロデュース」の旗揚げ公演、「魔法少女バイオレットグリーン」なのです。
「ぽちっとなプロデュース」は、いわゆる「劇団」ではありません。矢部さんを中心とした「お芝居をやりたい仲間(声優さん)」の集まりで、それぞれ所属事務所も違うし、特に矢部さんと親しい友人たち、と言うわけでもないようです。(実際、稽古を始めるまで、矢部さんがほとんど面識のなかった人もいたそうです。)
ヒロインは、WOWOWアニメ「D4プリンセス」で主役を演じた倉田雅世さん(アーツビジョン)以下、PCゲーム関係で活躍中の三五美奈子さん、そのざきみえさんを始めとする、「アトリエピーチ」所属の方々が中心のキャスティングになっています。もちろん、みなさん声優さんです。
演出は、声優の茶風林さん。彼はベテランの声優さんですが、舞台経験も豊富な人です。ところが、演出をされるのは今回が初めて。そんな茶風林さんに演出を依頼したのは矢部さんで、
「お芝居の話をしていて、すごく細かいところまで目配りをされる方だったんで、きっと演出をされれば素晴らしいと思ってお願いしました。でも、茶風林さんとは、それまで2回ぐらいしかお会いしたことがなかったんですが(笑)」
その脚本を、我らが(?)望月さんが、手がけられたのです。これも、矢部さんが望月さんの監督作品「勇者指令ダグオン」に出演されていたことが縁で、実現しました。
実は、これ、望月さんの希望から始まったんだそうです。望月さんは、以前から演劇が好きだったそうで、舞台の脚本も手がけてみたいと考えておられたようです。その旨を舞台役者でもあった矢部さんに相談されたことがきっかけで、矢部さんの企画に参加されたとのこと。
とはいえ、舞台の脚本は、望月さんにとっても初めての経験だったわけで、パンフレットにも、自ら「新人」と名乗っておられました(笑)。
僕は、この公演を大場会長と一緒に拝見しました。今回は、まず舞台を観る前に考えていたこと、そして舞台を見終わった思ったこと、最後に全体の総括、と言う形でお話をしたいと思います。相変わらず、ちょっと意地悪な見方しかできないので恐縮ですが、しばらくお付き合いください。
舞台をごらんになれなかった方へ
というか、大多数の方は、ごらんになってないですね(^^;。この作品は、小劇団の公演ですから、ビデオ化なんてことは(たぶん)ありえないし、再演の予定も聞いていません。いちおうシナリオは前回の会誌の付録に付いていますが、シナリオだけで作品を理解するのは難しい。だから、僕の文章を読んでも、僕の意見に対して、判断が難しいですよね。(事実上)ほとんどの方が観ていない、そして観ることができない作品を批評するのは、フェアじゃないし、気が引けるので、ここでおことわりを入れます。
まず、この作品は、おもしろかったと思います。いろんな意味で100点満点、とまではいかないにせよ、「時間とお金をかけて」観る価値のある作品だったと思っています。あえて付け加えるならば、舞台上の倉田雅世さんは、なかなか可愛かったですね。これは見れて良かった(笑)。彼女も、もっとメジャーになってくれるとうれしいな(^^;
前置きが長くなりました。どうも前提条件をくどくど並べ立てるのは、迷惑ですね。これは望月さんの影響かも。(って、ごめんなさい、ウソです)
前段 : 舞台が始まる前に考えていたこと
声優さんのお芝居について
僕はご縁があって、声優さんのお芝居を観る機会が、時々あります。ご存じの方も多いでしょうが、声優業というものは、もともと舞台役者の副業として始まった部分があり、ベテランの声優さんの中には、今でも舞台で活躍されている方が、たくさんいます。人によっては、「舞台が本業、声優は生活の手段」とまで考えておられる方もいます。声優と演劇は、実は、親しい間柄なのです。
ベテランばかりでは、ありません。若い声優さんの中にも、お芝居にシンパシーを感じている方は多いのです。というのも、声優さんの場合、養成の過程で必ずお芝居を学ぶので、元々声優志望一本だった人でも、ほぼ必ず、舞台の経験をするからです。場合によっては、そこで舞台に興味を持ち、声優の道を捨て、舞台役者を目指す人もいるくらいです。
ですから、声優さん達の舞台公演は、決して珍しいことではありません。ただ、ここで問題なのは、そのクオリティなのです。少なくとも僕の知る限り、声優さんのお芝居は、他の商業演劇や、小劇団の公演と比べると、(例外は、たくさんありますが)おおむね、あまりおもしろくありません。その理由は、シナリオが稚拙であること、役者の演技が下手であること、ダンスや歌がレッスン不足であること、こんなところでしょうか。辛辣な言い方をすれば、「学芸会レベルに毛が生えた程度」に出くわす可能性も多いのです。
にもかかわらず、盛況な公演も少なくありません。その理由は、「人気声優が出演するから」です。勢いに陰りがあるとはいえ、声優ブームは健在です。声優ファンにとっては、演劇も、コンサートやライブ、作品イベントと同じ「イベント」に過ぎないのでしょうね。まあ、お客さんが入ってくれることは、なんにせよ「いいこと」だとは思うのですが、「内容に関係なく、ある程度の集客力がある」という状態は、あまり感心しない部分もあります。つまり、そこに「甘え」が出てくる可能性が、あると思うからです。少なくとも、他のお芝居が、集客に悩み、「よりお客さんに認められるような芝居にしよう」という「努力、精進」を重ねるのに対して、声優さんの場合、「今のままで充分お客は入る」ということで、クオリティが上がらない可能性だって考えられるからです。
優れたシナリオの欠乏、演技者の実力不足、役者の人気先行で批判力のない観客。その結果としての向上心の相対的不足。声優さんのお芝居を取り巻く状況は、あまり芳しいものではありません。
今回の公演でも、興行的にそれなりの結果が残せた(旗揚げ=初公演にもかかわらず、赤字は少なくて済んだそうです。)のは、三五美奈子さん、そのざきみえさんの人気に負う部分は結構あったそうです。
僕としては、いつもキャスティングではなく、「お芝居としておもしろいか」を唯一の価値基準に、いくつもの声優さんのお芝居を見てきたのですが、残念ながら、「満足した、おもしろかった」経験は、今までのところ、あまり、ありませんでした。
今回の場合も、(これはスタッフに失礼で、大変恐縮ですが)正直、「あまり期待していなかった」というのが、鑑賞前の心情でした。(ゴメンナサイ)
望月智充と、演劇のシナリオ
さて、肝心の望月さんのシナリオですが、僕は、「今回、望月さんが芝居の台本を書く」と聞いたときから、非常に興味を持っていました。なぜなら、失礼ながら、望月さんは、演劇の脚本家向きではないと思っていたからです。
少なくとも今までの望月さんの仕事から拝察して、舞台の台本は、得手ではないだろうと考えていました。
僕の乏しい観劇経験で知る限り、舞台、特に小劇団の台本には、独特の方法論が存在します。おおざっぱに言えば、「どんでん返しのドラマ観」とでも言うのでしょうか。前半と後半では、物語がドラスティックに動く場合が多いのです。例えば、善玉が実は悪玉だった、被害者が加害者だった、平和な家庭が実は宇宙人だった、という風な、「前段の世界観が、後段では崩壊する」と説明すれば理解してもらえるでしょうか。
これは、舞台演劇に特有のレトリックだと思います。つまり、特に小劇団の場合、舞台装置や、衣装、メイクなど、大道具、小道具のたぐいは、簡素なのが普通です。従って観客は、舞台に登場する人物が「何者」であるか、見ただけでは判断できません。誰かの「セリフ」を聞かない限り、観客は、登場人物が「大学生」なのか「小学生」なのかすら理解できない場合が多いのです。
つまり、小劇団の場合、観客は、演じている人物が、どんな年齢、風貌であろうと、その人物が名乗る「役」だと、「思いこんで」見ることが要求されるわけです。どう見ても30近い男性が「ボクは小学1年生」と言えば、それは小学1年生だし、若い女性が「自分は、近所のご隠居だ」と言えばそうなのです。言い換えれば、演劇を鑑賞するためには、役者の「役」を「記号」として認識することが「必要」なのでしょう。
もちろん、記号として役を認識するだけでは、芝居はおもしろくありません。そこで重要なのは、肉体的な見た目はどうあれ、役者さんが、与えられた役を上手く演じられるか、という点です。
役者さん達は、自らの演技力で、様々な役を演じます。ということは、演技を変えれば、ある瞬間から、何の外見の変化も伴わずに、全く別の役に変身することも可能、と言うわけです。
大島弓子の名作「綿の国星」に「葡萄夜」という秀逸なエピソードがあります。老婆に飼われていた、老婆のような猫のお話なのですが、ずっと老婆だと思っていたその猫が、最後にまだ2歳の若い雄だったことが、鮮やかに描き出されます。これはマンガですが、こういう自由な発想の演出が、演劇でも可能なのです。
外見に囚われない役作りが、舞台の場合、大きな武器になることは、これでご理解いただけると思います。
ただ、ここで問題なのは、あまり自由な「変身」は、物語の構築性、整合性に、大きな「歪み」を生むおそれがあることです。言い換えれば、帳尻が合わなくなると申しましょうか。
ここで、前述した望月さんの得手不得手、という話になります。ご存じのように、望月さんは、非常に構築性を重んじる作家です。設定を緻密に組み上げ、それを有効活用しながら、ドラマの密度を上げていく。これは、望月さんの真骨頂でしょう。その点では、アニメ業界はもちろんのこと、広く「ドラマ」の作り手として、ひときわ光る、優れた作家だと思います。
ところが、こういう構築性は、「おもしろい物語」を作る上で、大きな足枷になる場合も多いのです。昨今は、帳尻が合うことよりも、刹那的な盛り上がりを重んじる風潮が強いですから、きちんと複線を引いて緻密に作り上げる物語は、あまり好まれないようで、悪く言えば、「地味」で片づけられてしまう恐れすらあります。
昨今の小劇団演劇で、「二重底的ドラマ」が主流になったのも、やはり「観客を飽きさせず、盛り上がるストーリーにしたい」という作り手の希望が反映したものでしょう。つまり、演劇も、他の「ドラマ」媒体(アニメや映画、TVドラマ)と同じように、「整合性よりも盛り上がり優先」という「最近の流行」に流れている、ということだと思います。これは、僕の知る限り、望月さんには苦手な方向、だと今まで考えていました。
とはいえ、望月さんは、最近の芝居をよくごらんになっておられるそうなので、こういう傾向は、よくご存じのはず。その望月さんが「あえて」演劇のシナリオを手がけた、となれば、何か「腹案」があるはずだと、僕は勘ぐってしまいました。それで「望月ファンとしては興味津々」だったわけです。
さて、いよいよ舞台が始まります。
ここまで読んでいただいた方には恐縮ですが、ここで一旦、この拙文を閉じてください。
そして、前回の会誌に付録として添えた、「魔法少女バイオレットグリーン」の脚本を一読お願いします。
そしてシナリオを読み終えられた後、もし興味があれば、僕の感想を聞いてください。
勝手なお願いで恐縮ですが、よろしくお願いします。
後段 : 舞台が終わって、感じたこと
シナリオと実際のお芝居との違い
まず、ごらんになったシナリオと、実際のお芝居との違いを、簡単に説明します。といっても、内容の変更のような、重大な相違点は、1点だけです。それは、山崎姉弟の母が初登場する喫茶店のシーンと物語の終幕、みどりと由美子の別れのシーンに関わる部分です。
シナリオでは明快にされていなかったのですが、実際の芝居では、「どうすればみどりが成仏できるか」ということが、ストーリーの重大なキーワードになっています。具体的に説明すると、「誰かがみどりを『好きだ』と言ってくれれば、姉すみれの呪縛は消滅する。ただし、告白は、その娘がみどりの正体(幽霊であること)を承知した上でないと、意味がない。」という設定になっているのです。(山崎の母が、説明してくれます。)
当然、ラストシーンも変わっています。シナリオでは「キス」によってみどりは成仏する筋立てなのですが、舞台では変更されていて、まず、由美子がみどりに「好きだ」とはっきり言う。その結果、呪縛が解け、みどりの姿は、男にも見えるようになります。それと同時に、女の目からは、みどりの姿が透けていくのです。多分、「男に全く見えなくて、女にはっきり見える」という状態から、「男女同じように見えるが、その姿は薄れている」に変わったということなのでしょう。これは同時に、この世への未練が断ち切られ、成仏するときが迫ったことを意味します。
みどりの成仏を前に、「こんな気持ちではシナリオを完成できない」と、由美子は泣き崩れます。そこで、みどりは、「一緒に最後まで書こう」と由美子に乗り移り、二人(憑依しているので一人?)は、お互いの出逢いで演じたセリフ(理想の男の子か、身近な男の子か〜)を再び演じ、そのままみどりは成仏していく、という筋立てに変更されています。
それ以外の主な変更点を紹介すると、まず、喫茶店で文太が由美子の正体を当てる三択。ここは、「由美子は、ちょっとおかしい」と「由美子は、シナリオライターである」は、シナリオと同じですが、真ん中の答えは、「由美子は声優である」から「由美子は、俳優である」に変更されています。次に、みどりとの関係に悩み、台本書きがスランプになっている由美子を、まみこと友香が訪ねてくるシーン。舞台が「由美子の部屋」から「閉店後の喫茶店」に変更されており、話が大幅にはしょられ、由美子達3人がみどりの家を訪ねに行くことになります。あとは、25年前の「バイオレットグリーン」と「みどり達の父親の話」が全て省略されています。
一応整理すると
「由美子が絡む部分の下ネタは、ほとんどカットされた。」
「アニメネタは、すべて削除された。」
「バイオレットグリーンが25年前のリメイクであること。その監督と同姓同名だった父親のエピソードなどの設定は、なくなった」
というのが、大まかな変更点になります。
ちなみに、台本というものは、程度の差こそあれ、実際の舞台よりもセリフが多いのが普通ですから、この程度の変更は、重要視する必要はないと、僕は思います。
まあ、敢えて言えば、下ネタは物語の流れとは結びついておらず、特には不要に思われますし、同様に、バイオレットグリーンをめぐる細かい設定も、物語と有機的な結びつきを持っていませんから、必要ないと言っても、差し支えないでしょう。また、アニメネタは、観客層を「広く一般の方」と考えたスタッフの意向にあわないので削除されたのかもしれません。
物語についての感想
さて、今回のお話ですが、まず注目したいことは、「女にしか見えない幽霊」という設定です。これは、望月さんが提示した、極めて「舞台劇的な」(舞台劇独特の)設定でしょう。こういう設定は、映像作品では、非常に表現しにくい設定ですから、もしかしたら、望月さんが、ずっと以前から温めていたアイデアなのかもしれません。
この設定は、有効活用されます。実際、みどりは、姉すみれと絡むシーンを除くと、必ず男と女、両方がいる場所に出現します。すなわち、舞台上には、いつも、みどりが「見えている人」と、「見えていない人」が共に存在するように、構成されているのです。この設定は、物語をコミカルに、テンポよく見せていくことに、有効に機能しています。ここら辺は、望月さんらしい周到さ、と僕は感じました。これは、「どんでん返し的ストーリー」というありがちな設定を使わずに、「舞台劇らしい筋立てを」という望月さんのアイデアというか、自己主張なんだろうなと、受け止めました。
ストーリーについても、僕は「望月さんらしい道具立て」「望月さんらしい筋立て」という風に感じ、かなり楽しめました。特に、「魔法少女」「幽霊」といった小道具を駆使した「ラブストーリー」とくれば、これはもう、望月ファンには、たまらない「お約束」ですよね(笑)。
今回のストーリー作りにあたり、望月さんには、「一見、そう見えないラブストーリー」というリクエストがあったそうです。実際、この物語には、深刻なテーマとか、強いメッセージ性、みたいなものは、酌み取ることが出来ませんでした。いわば、「娯楽性を重視したエンタテインメント性の高い作品」で、あえて辛辣な言い方をすれば、「内容の薄い作品」だったと思います。
過去の望月作品になぞらえるならば、「ここはグリーンウッド4緑林寮の幻」に近い印象ですね、僕の主観で言えば。
この二つの作品は、共に「生身の人間と幽霊との恋?」という素材を扱っています。この素材は、「現実的には、結ばれることが出来ない者同士の恋愛」という「深刻なテーマ」を抱えており、世の中には、その事を主題にした作品も数多いのですが、どうも望月さんは、あくまで小道具として扱うだけで、踏み込んだ解釈は、持ち込まない方針のようです。
バイオレットグリーンの場合も、「結ばれない恋」という素材は、ドラマを貫く「縦軸」として、物語の重要な構成要素なのですが、結果としては、明確な結論を持ち込むことも、作り手の主張を述べることも、避けていました。
前段で説明した、シナリオの変更部分についても、同じ事が言えます。「好きだ」と相手に告白されることで成仏できる、と言う設定は、確かにストーリーを展開する上で、有効な設定になっていますが、よくよく考えてみると、特にテーマには関与してこないんですね。由美子が最後に「みどりは消えたんじゃない、私の中に生きている」と言ってはいるものの、最後にみどりが成仏していないことが、改めて紹介されますから、意味を失っているわけです。
これは僕の主観ですが、どうも望月さんは、「幽霊との恋」という素材を「ネタ」感覚で扱う、というのか、好んで幽霊を持ち出す割には、その事に踏み込んでいくことに興味が薄いように感じます。それはつまり、「日常の世界の中に、非日常を持ち込む物語だからといって、物語の最後に、あえて非日常と決別する必要はない」という考えなのだと思います。
考えてみれば、由美子と知り合った時点で、(もっと踏み込んで言えば、ドラマが始まった時点で)みどりは、すでに幽霊なのです。物語が「みどりが生きている時点」から始まったり、由美子が生前のみどりと出逢っていたなら、幽霊としてのみどりには、甦るとか、消滅すると言った、「何らかの解決」が物語の最後に必要になってくるでしょう。しかし、最初から幽霊であった以上、無理に幽霊でなくなる(甦るとか、消滅するとか)ことは、特に必要ではないのです。
これは、「めぞん一刻」のラスト間際、五代が惣一郎の墓前で語った言葉、「響子さんの心の中に惣一郎がいることは、ねたましい。しかし、自分が響子さんと出逢った時点で、既に惣一郎は響子さんの心の中に存在したのだ。ならば、その響子さんを好きになった以上、心の中の惣一郎ごと、自分は受け入れる。」と同じ論理だと思います。ドラマの世界では、既に幽霊だったみどりを好きになった以上、みどりが幽霊であることは、恋愛の障害にならないわけです。
従って、みどりの成仏、という筋立ては、ストーリーを牽引する重要な役割は果たすものの、そのままみどりが成仏してしまっては、物語がうまく自己完結してくれなくなってしまいます。だから、一見とってつけたようにも思えるラストシーンは、実は最初から用意された、物語の完結に必要不可欠なエピソードだったのです。
付け加えるならば、シナリオ段階のストーリーにも、望月さんらしい道具立てがあります。確かにシナリオ段階のストーリーは、実際の舞台に比べると、物語の方向性を示すキーワード(この場合、由美子の告白)がないぶん、ストーリーのメリハリを欠いていますし、クライマックスの盛り上がりも見劣りがします。しかし、そのかわり、舞台の上の登場人物に、きちんとした役割分担があります。実際の舞台では、クライマックスに至ると、みどりと由美子以外の登場人物は、全く存在意義を失い、ただ立っているだけの存在になってしまっています。ここらへんは、好みの差かもしれませんが、「設定、状況を有効活用する」望月さんの好みから言えば、せっかく舞台上にいる登場人物を、置き去りにしてしまうのは、抵抗があったかもしれません。
もう一つ、二人の別れを「キス」に集約したところも、望月さんの得意とするところでした。以前にも書きましたが、望月さんは、「キス」を「非日常との決別」に使うことを好みます。「白雪姫」や「眠れる森の美女」では、王子様のキスは悪い魔女の魔法を解く力がある、と説明されていることを、望月さんは「キスには夢から目覚めさせる力がある」と解釈されているからだと、僕は思っています。そんな望月さんですから、ラストにキスを持ってきたことに、僕は「らしいなあ」と嬉しく思ってしまいました。もっとも、幽霊相手だと、キスの効能も効かないようで、グリーンウッドの時も、今回も、効果はありませんでしたが(笑)。
望月作品としてのバイオレットグリーン
大変失礼な話で恐縮ですが、僕は今まで、「シナリオライターとしての望月智充(あるいは坂本郷)」を、あまり評価していませんでした。
こう言ってしまうと語弊もあるので、補足します。僕は、「演出家」望月智充と比べると、「脚本家」望月智充(あるいは坂本郷)は、相対的に見劣りがする、と考えていたのです。
ちょっと脱線しますが、僕は、「昨今のアニメーションは、シナリオ主導の時代である。」と考えています。つまり、「シナリオライターの個性」が、「作品の個性」として前に出てくる作品が、時代の主流になっていると思うのです。
僕はアニメのプロではないから、そう思うのかもしれませんが、全く予備知識を持たずに、ある作品を見た場合、演出家よりも脚本家の方が、見当がつくのです。「作品を見たら、必ず脚本家を当てられる」とは、とても言い切れませんが、例えば、小中千昭、村井さだゆき、黒田洋介、荒川稔久、横手美智子、信本敬子、川崎ヒロユキ、あかほりさとる、といった面々は、善し悪しはともかく、それなりに明快なカラーを持ち、見ていて見当がついたり、エンディングで名前を見て、「なるほど、彼(彼女)らしいな」と納得できます。
その一方で、演出家を当てるのは、難しい。変な言い方ですが、上手い演出家はけっこう多いのですが、個性的な演出家が少ないのです。古橋一浩、ますなりこうじ、桜井弘明、片山一良、飯田馬之介、片淵素直、等々、「手際がよい」「丁寧な演出をする」演出家は、もしかしたら昔よりもずっと増えたのかもしれません。しかし、彼らには、素人目にもはっきり分かるような「明快な個性(カラー)」が見えてこないのです。
断言は出来ませんが、昔はこうじゃなかったように思うのです。富野義幸(由悠季)、出崎統は言うまでもありませんが、高橋良介、長浜忠夫、りんたろう、等々、演出家には強い個性と、作品に対するイニシアチブが存在し、脚本家の個性なんか、ほとんど見えてこなかった記憶があります。
なぜ、作品の主導権が演出家の手から脚本家の手へシフトしたのか。それは、アニメが「映像」よりも「言葉」の表現力に依存するようになったからだと思います。諸般の事情があると思うし、それを糾弾する意図はありませんが、今のアニメーションは、「映像で表現する」技術に、深刻な「頭打ち」が見受けられます。つまり、誰がやっても、同じ表現しかできないわけです。そこで、「言葉」の個性が、相対的に上昇してきたのだと思うのです。
僕の目から見て、今、個性が実感できる演出家というと、望月智充、佐藤順一、庵野秀明、それに大地丙太郎ぐらいに思えます。
そんな中、望月さんは、「演出家」のみならず、演出を離れた単独の「脚本家」としても活動されています。しかし、「脚本家」としての望月さんには、どうも消化不良な印象があるのです。
望月さんの個性は、確かに素材選びの嗜好(魔法少女とか、幽霊とか)にもあるのですが、それ以上に、「世界観の構築」が重要な要因になっていると思います。言い換えれば、作品の「空気」や「リズム」にこそ、望月さんの個性が反映されると思うのです。こういった要素(空気やリズム)は、シナリオだけで表現するのは、ちょっと難しいでしょう。やはりカット割りやタイミングを上手く使って初めて、生きてくるものだと思うのです。例えば、「ファンシーララ」を見ても、「望月さんなら、こういうカット割りはしないだろう」とか「このタイミングでは、望月さんの意図が上手く表現できていないなあ」と遺憾に思うことも多く、僕としては、どうしても「やっぱり望月さんには、演出もやってもらいたかった」と感じてしまうのです。(と言っても、望月さんが脚本だけで作品に参加したのは、「リカちゃんとヤマネコ星の旅」と「ファンシーララ」ぐらいだと思うので、言い切ってしまうには証拠不十分の感もあるのですが(^^;)
ですから、望月さんが、その持ち味を最大限に生かすためには、「シナリオ」だけでは不十分で、「絵コンテ」「演出」まで望月さん自身がやる必要がある、と思っていたのです。望月さんは、脚本しか担当されていない今回のお芝居にも、当然、それほどの期待もしていなかった、と言うのが本音でした。
ところが、今回のお芝居を見て、僕は自分の不見識を恥ずかしく思いました。上手く伝えられないのですが、今回のお芝居は、「非常に望月さんらしい」し、かつ「おもしろかった」のです。
僕は考え込んでしまいました。「舞台である以上、望月さんらしいカメラワークとか、タイミングとかを持ち込むことは不可能だし(あたりまえ)、しかも望月さんが演出したわけでもないのに、どうしてこんなに『望月さんらしいなあ』と実感できるんだろう?」と。
そこで、僕は、望月作品の魅力について、もう一度考え直してみることにしました。望月作品の魅力となる要素を挙げてみると、設定を構築してストーリーの中で有効活用すること、きめ細かい感情表現の演出、独自性を持つコンテワーク、すべてのキャラクターに対する掘り下げと、愛情ある扱い、そして非日常に対する日常的な感覚、こんなところでしょうか。(他にも、もっとありますよ(^^;)
こういった魅力の中で、今回のお芝居で、最も強く感じたのは、「非日常に対する日常的な感覚」でした。ちょっとわかりにくい表現で恐縮ですが、これは、「幽霊とか、魔法世界の人といった非日常の世界からやってきた存在にも、我々と同じ様な日常的な感性があったり、普通の生活があったりするのではないだろうか」という考え方のことです。
幽霊を例に挙げると、望月さんの物語に登場する幽霊達は、怨念のかたまりでも、誰かの守護者でもなく、ただ幽霊という体質を持つだけの、普通の人間ばかりです。しかも、物語に登場した時点で、すでに幽霊なので、生きていた時のことは、ほとんどわかりません。つまり、望月さんの物語に登場する幽霊は、意味合いにおいて、人の死んだ後の姿ではなく、非日常の世界からやってきた(その世界の)普通の人に過ぎないということです。
物語というものは、多くの場合、日常と非日常が邂逅することで成立します。望月さんの場合、普通の人々が、魔法や幽霊と出会うことが、それに該当するでしょう。(「海が聞こえる」の里伽子も非日常ですよね、あの世界では)望月さんの魅力は、その非日常を、日常と対立する存在、と考えず、むしろ日常の中に内包できる親しい隣人、として扱うことにあると思います。
この部分が、今回のお芝居で、特に効果的に、かつおもしろく、感じられたのです。
考えてみれば、こういう感性は、非常に演劇的である、といえるかもしれません。アニメや実写のような映像作品の場合、どうしても日常と非日常の「摺り合わせ」が面倒になってしまうからです。例えば、日常の生活の中に、非日常の存在がやってきた場合、「なぜやってきたのか」「非日常の世界とは、どんな世界なのか」等々、日常と非日常が邂逅しても不思議のない、「オリジナルの世界観」を構築しなければ、物語としての説得力を失ってしまう危険性があります。特に望月さんの場合、世界観や設定を構築することに執着心の強い作家ですから、なおさらこだわるはずです。
しかし、「当たり前の存在としての非日常」を肯定できるような世界観は、簡単には作れません。下手をすれば「言い訳の羅列」「ご都合主義の固まり」になるケースも多いようです。そこまで行かなくても、「わかりにくい、煩雑な世界観」に陥ってしまう可能性が高い、つまり上手く世界観で帳尻を合わすのは難しいのです。望月さんは、そんな帳尻あわせの、かなり上手い方ですが、それでも煩雑に思える場合も、少なくありませんでした。
その点、演劇は楽、というか自由です。いちいち世界観を紹介することなしに、いきなり非日常と日常が共存していても、観客は奇異に思うこともないのです。前述のように、演劇は自由度が高く、観客は舞台の上で起こることを、「ありのまま」に受け入れてくれるからです。
「めんどくさい手続きを踏まずに、非日常の中に入っていける」演劇の「特性」は、もしかしたら、望月さんにとって、非常に都合の良い環境なのかもしれません。大多数の観客にとって、煩雑な設定は、物語を楽しむ上で、あまり歓迎されませんから。
僕は、自分の考えを改めました。望月さんは、舞台演劇の作家として、高い適性を持っているんだと、今は思っています。
これからの課題
どうも僕は、誉めると、次にけなす、そんな悪い癖があるようです。最後に、ちょっと辛辣な話を言わせてください。
今回の「バイオレットグリーン」は、非常に楽しく拝見しました。しかし、ちょっと気になったことはあります。それは、「この作品には、新しいアイデア、新しい考え方を、望月さんは提供されなかったな。」ということです。今回は、初めての演劇挑戦、しかも演じるのも旗揚げ公演の新ユニット、とくれば、冒険をするのは難しいでしょうから、それもやむを得ないのかもしれませんが。
望月さんは、今後も舞台のシナリオを手がけられるおつもりとのこと。今度はもっと挑戦的な素材、表現にチャレンジして欲しいなあ、というのがファンとしての望みです。次回を楽しみにしています。
こぼれ話
今回の原稿作成にあたり、「ぽちっとなプロデュース」の矢部さんには、色々ご協力いただきました。この場を借りて感謝します。
それで、矢部さんからうかがった余談を、最後にちょっと紹介します。
今回、脚本を望月さんにお願いして、一番困ったことは、上がりが遅かったことだそうです。
依頼をしてから、約5ヶ月。「あまり催促をしても申し訳ないし」と待っていても、なかなか台本があがってこない。それでもようやく台本がもらえる日がやってきました。矢部さんは「今日から稽古が出来る」と役者を集め、夕方から稽古を始められるようにスタンバイして、望月さんとお会いしたそうです。
ところが、出来ていたのはプロットだけ(^^;望月さんはその場で筆記用具を取り出したそうです(笑)。矢部さんは目の前が真っ暗になった(笑)のですが、そこからは、望月さんのすごいところで、矢部さんとキャッチボールをしながら、どんどん台本を書き進めたそうなのですが。
それと、ホームページでも紹介されていた、次回の舞台脚本。長沢美樹さんが所属する劇団「ヘロヘロQカンパニー」のために書かれる予定なのですが、これが実は、「バイオレットグリーン」と同時期、もしくはそれ以前に依頼されていたそうです(^^;
いつ拝見できるんでしょうか(^^;…………