魔法のステージ
 ファンシーララ
の小部屋

(Last Update 01/26/2000)


篠原みほ

おおもりよしはる氏のイラストです。


 皆様からの「ファンシーララ」に関するご意見・ご感想・イラスト等募集しております。
 どうぞよろしくお願いします。
   メールはこちらに。


 尚、当小部屋に載っている記事につきましては、編集部の判断で、その内容の一部は、会誌or会報に適宜掲載していく予定にしております。その旨予めご了承下さい。
 また、当FCの掲示板の「ファンシーララ」に関する書き込みにつきましても、内容次第では当編集部の判断で、適宜こちらのコーナーに移し替えていきます。以下のコメント・記事で、何月何日何時何分と表示されているものは、伝言板より移し替えたものです。
 もし、会誌or会報への掲載、掲示板より当コーナーへの移し替えに関しまして、何か差し障りがある場合は、こちらへメールを下さい。訂正・削除するなり適切に善処いたしますので・・・。  (FCスタッフ) 


「こだわりの書12」(12/30/98発行)より

ファンシーララ の物語が終わって
〜終わりは始まり。でも、その先に待っているものは?〜

文責:かっきい

はじめに
ファンシーララが終了しました。まずはスタッフのみなさま、お疲れさまでした。そして、ありがとうございました。昨今、「売らんかな」の迎合精神に満ちた作品が多い中、「きちんとした作品を作りたい」という作り手の誠意と熱意を感じる作品だったと思います。僕自身、この半年間で最も熱心に見た作品だったし、考えさせる部分も多い物語でした。
この文は、以前書いた「マミからララへ〜」という拙文の続きです。例によって、僕なりの視点で、この作品についての総括、感想をお話ししてみたいと思います。
こういうやり方が妥当かどうか疑問ですが、今回は2部構成にしてみました。「最終話についての考察」と「全体の総括」です。これは、前回の拙文が15話までの考察だったので、一旦これを補完してから、全体の総括に移りたいと考えたからです。
少々長くなりそうですが、おつきあいください。

前回のお詫びと訂正(^^;
 早速で恐縮ですが、前回の拙文に間違いがありました。ララの年齢です。僕は見た目から「17歳ぐらい」と判断してしまいましたが、今回の原稿のために見直してみたところ、2話で本人が「15歳…ぐらい」と言っているんですね(^^;大きな顔をして大嘘をこいてしまいました。失礼しました。
 というわけで、僕の説は根本の問題で矛盾が生じてしまいました。ただ、この
15歳という設定も、どうもエピソード次第で揺れ動いているようで、実のところ、年齢を確定するのは難しそうです。まあ15〜17歳という感じでしょうか?
 拙文で「17歳」という「勘違い」を前提に論旨を展開したことは、ミスを認め、これを撤回します。
 しかし、魔法の「ひみつ」に「思春期の凝縮」が関与しているという自説には、まだ未練があります。そのことも、可能ならばふれたいと思っています。

第一章 最終話についての考察

1.  魔法をなくしてしまった美保
25話で、美保は魔法のスケッチブックとペンをなくしてしまいます。美保は一生懸命探すのだけれど、どうしても見つからない。そこで「魔法のペンとスケッチブック、もう一度出せないの?」とミグ、モグに頼むのですが、その結果、ミグとモグまで消えてしまう。魔法に関わるすべてをなくしてしまった美保。最終話はここから始まりました。
日常に戻った美保。美保は、ララを失ってしまった大人たちの様々な姿を見て回ります。そして不思議さんに会い、「なくすことも一つの解決法だ」と教えられ、最後にコミさんから「あと何年かしたら本物のララになれるんだよ」と教えられて、物語は終わります。
これは、第1話で不思議さんが言った「過ぎ去った時間はどこにも存在しない。だからといって、過ぎ去った時間は無意味なのだろうか?」という問いかけに対する、「過去も現在も未来も、全部『今』の積み重ね。大切なのは『今』だけ。だから、どんなに悪い状態の時でも、この世界には、生きる価値があるんだ。」という答えを具現したものと言えます。そして美保は、ララは消えてしまっても、みんなの心の中に、そして何よりも自分の中にララが存在していることを確信して、物語は幕を閉じたのです。
物語は一見、きれいに終わります。でも、僕には釈然としないのです。

まず、美保が魔法をなくしてしまったこと。美保は自分の過失のように思っていますが、どうもおかしいですよね。今までなら、美保の手に余るピンチ?の時には不思議さんが手を貸してくれたはずです。大体、ファーストコンサートを大成功させて、「さあこれから!」という時に、特にやむを得ない理由もなくなくすなんて、タイミングが良すぎます。これは、どう考えても「魔法を取り上げられた」と解釈することが、最も自然でしょう。美保がなくしたわけではないのです。
不思議さんは言います。「色々だよ。魔法が重荷になってしまう子、魔法に頼りきって失敗する子、魔法なんかいらないと思って捨ててしまう子、色々だ。なくしてしまうというのも一つの方法だよ。」でも、美保はどれにも該当しないのです。
確かに「ララの将来」という見えない壁は見え隠れしてきましたが、これはまだ「重荷」とまでいかない。それに美保は、優のように魔法を「いらない」と感じたことはなかった。そして美保は魔法を取り上げられたのであって、「なくした」のでもなかった。つまり、美保は、「何の前触れもなく」魔法について自分の答えを出す前に失ってしまったのです。
変な言い方ですが、これは危険なことです。気持ちの整理がつかないまま失ったものに、人は強く引っ張られるからです。
後述しますが、美保は小学3年生としては不自然なくらい、責任感の強い子でした。美保にとって、「結果としてララを投げ出してしまい、周囲に迷惑をかけた」ことは、大きな負い目になってしまったはずです。彼女はきっと、「6年後に本物のララになる」ことを心に誓ってしまった。これは彼女にとって、本当に正しい選択なのでしょうか。
確かに「ララ=アイドルになる」ことは美保の夢でもありました。それ自体は外側から強制されたものではありません。しかし、美保には「漫画家になる」夢もあったはずです。
良い悪いを安易に決めるつもりはありません。しかし、美保はララの魔法と出会うことで、自分の人生を決定づけられてしまったのです。
もちろん、「美保がララになる」と確定したわけではありません。ただ、放送局に勤める母のコネ、ララの正体を知るコミさんの存在、そして美保の性格を思えば、その公算はかなり高いと考えるべきでしょう。
極端な言い方をすれば、美保はララにならざるを得なくなってしまった。言い換えるならば、美保は「魔法の呪縛にとらえられてしまった」のです。

2.  ララの「今」とは
実を言うと、僕はララの最後がどうなるのか、一つ注目していた点がありました。それは「美保はララの記憶を失うのかどうか」という点です。
ずいぶん前の話ですが、僕は、大林宣彦監督に、映画「時をかける少女」について問題提議をしたことがあります。簡単に言うと、ヒロインは、非日常の存在である未来人の少年(理想の恋人)を選び、彼女に深い思いやりをみせる現実の同級生を捨ててしまった。しかも現実の同級生は、報われない想いを最後まで追っていた。僕は現実の少年が気の毒で仕方がなかったので、「これは正しい選択なのだろうか?」と問うたのです。
その時、大林さんは、「非日常は、現実には存在しないものだ。だからこそ人間は、非日常ではなく、現実を見つめるべきだと思うし、物語は非日常よりも現実を肯定すべきだと思っている。この物語はアンチテーゼだと理解して欲しい。だからこそ現実の同級生を救済しなかったのだ。」と言われたことを覚えています。
ララの場合、僕はずっと気にしていたことがあります。それは、「ララとしての経験は、美保の経験のうちに数えていいのだろうか?」つまり「非日常の経験は、経験としてカウントできるものなのだろうか?」ということです。
(美保と比べて、という意味で)ララは「大人」です。従って、ララの「経験」は、「大人の経験」を含んでいくことになります。しかし、それは本来、美保が「何年か先に経験すべきこと」を非日常(魔法)の力で「先に経験してしまう」危険性を孕んでいるとも言えるのです。
大人の経験ばかりではありません。美保はララになることで、「美保ではできない」様々な経験をしてしまうのです。この「非日常の経験」について、物語は、意図的にララ(美保)のリアクションを避けています。
具体的に言えば、「おもちゃの国の美保」や「お母さんと一緒」などのエピソードについて、美保はハッキリと経験についての感想というか意思表示をするものの、「チビ猫リルと魔法のひみつ」や「その夢は終わらない」では美保(ララ)が経験をどのように受け止めたか、画面上では何もわかりません。これは、前者を「美保の日常の経験として評価できる」、後者を「ララになる(魔法を使う)ことでしか経験できない」というふうに区別して考えているからではないでしょうか。それは、「非日常の経験」を「美保の経験」としてカウントすることを保留している、もしくは躊躇しているようにも、僕には感じ取られたのです。
これらから判断して、僕は「美保は、ララの物語が終わる時点で、何らかの形で、ララとしての経験をリセットする必要があるのではないか。」と考えたわけです。
ところが、美保はララの記憶を失うことなく、魔法だけを失ってしまいます。その結果、美保は「自分の力でララになる」という一本道のレールを、否応なく走ることが運命づけられてしまったのです。

3.  魔法の呪縛
これだけを見れば、美保は今までの魔法少女の中で、最も不幸なエンディングを迎えた少女といえるかもしれません。魔法に出会ってしまったが故に、自分の意志と関係ないところで、人生が決定づけられてしまったのです。
しかし、僕は、物語が一方的に美保の人生を決めてしまった、とは思いません。まだララはアイドルとしてスタートラインに立っただけなのですから。
作品中で美保が悩んだ「ララの未来」は白紙なのです。これをどんな色に染めていくかは美保の気持ちだけの問題だし、そこから先は、魔法(非日常)の干渉を受けない「美保の現実」と言えるかもしれません。
言い換えれば、美保は「魔法」を手に入れ、他の人にできない体験ができた代わりに、「将来ララになって責任を果たす」という「人生の借金」を背負ってしまった。しかし、この借金は未来永劫に残るわけではない。「消えてしまったララ」への清算が済んだ時点で、美保自身が自分で進む道を決める機会が、もう一度やってくるのです。もしかしたら、これがララの物語が用意した「成長」という言葉の本当の意味なのかもしれないなと、今は思っています。
成長に必要なのは、経験です。経験というのは、決して楽しいものばかりではない。つらく悲しいことも経験です。魔法は美保に、「人にできない体験をする」代償として、「大切なものを失ってしまう」ことを経験させました。でも、魔法の影響は、それだけではなく、「美保が自分の力でララになる」という呪縛まで与えてしまった。でも、それもまた経験なのです。魔法の呪縛が解ける時、美保はすべてを理解し、本当の「成長」を遂げるのかもしれません。少なくとも僕は、そう考えたいと思っています。

4.  魔法の存在意義
物語世界における魔法は、大きく分けて、二つの目的で用いられると思います。一つは、夢や理想の実現としての魔法。もう一つは日常を肯定するためのアンチテーゼとしての魔法です。後者の例は、寓話に求められます。「欲張りな王様が『触ったものがみんな金になればいい』と願った。願いはかなえられたが、食べ物まで金になってしまうので、王様は食べることもできなくなってしまい、自分の欲深さを反省した。」(これってイソップ童話でしたか??)つまり教訓を引き出す道具としての魔法です。
ファンシーララの魔法は、多分にこういう要素のニオイがしますね。最初から魔法を否定するために魔法が出てきたように感じるのです。これは個人的な勘ですが、企画段階で、そういう意図が最初から盛り込まれていたように思います。(あくまで勘ですよ。根拠があっての意見じゃあないです(^^;)
しかし、それだけでは、物語は成立しません。魔法に魅力がなくては観客を惹きつけることはできない。魔法少女の物語は作れないのです。
これは僕の勝手な想像ですが、「ファンシーララ」という作品は、「魔法を教訓の道具として使おう」という安易な企画と、そこからどれだけ魅力のある作品を作り出そうかと考えたスタッフとの、葛藤の結果だと思っています。
その答えが、「これから!というところで魔法を失ってしまう美保」であり、「魔法に囚われてしまった美保」であり、「その先に白紙の可能性を持つ美保」だったのではないでしょうか。
この答えが正しいのか。僕にはよくわかりません。ただ、今までのように「魔法を否定する」、あるいは「魔法を卒業する」というやり方が、食傷気味というか、手詰まりになっていることも、認めるべきだと思っています。少なくとも僕は、既存の方法論をなぞることで「無難に」まとめてしまうよりは、たとえ不完全であっても新しい可能性にチャレンジする方を評価したいです。

5.  解決できない時の記憶
 ただ、それにしてもうまく理解できないのは、ララの物語が語るところの「時の記憶」にララとしての時間は含まれるかどうか、どうしても答えが見いだせないことです。
 少なくともララが美保の「数年後の未来」の姿であることは、間違いありません。ならば美保がララの姿で経験することは、時間軸の連続という「時の概念」に違反していることになりますし、前述のように、美保が未来にするべき経験を先にしてしまうことにもなってしまうのです。
 時のルールに違反したララとしての時間。これを飛躍して考えるならば、美保が「ララだった時の経験」を糧に、未来において同じ失敗を繰り返さないこともできるし、これはある種の「過ぎ去った時間のやり直し」にもなってしまう。「時の記憶」が「過ぎ去った過去は変更できない」ことに存在価値をおいているならば、もう世界観を揺るがす矛盾になってしまうのです。
 物語はその点について、はぐらかすばかりで、何の答えも用意していません。この点だけでも、この物語は未完成だといえると思います。

6.  個人的な願い
 まとめに、個人的な希望を一つ。美保の6年後、いや10年後を描いて欲しいですね。そしてその時、美保が自分の意志と力で、魔法の呪縛から解放されることを、僕は望みます。それを見ないことには、安心できないですから(^^;
想像を勝手に膨らませるならば、アイドルとして大きな成功を収めたララ(美保)。しかし、忙しい日常をこなすうち、彼女の中には「このままでいいのだろうか」という疑問が次第に大きくなる。そんな時、ララは偶然、ずっと疎遠になっていた幼なじみ、吉田太郎と再会する。太郎は突然、大学を中退し、ずっとアフリカに行っていたのだった…なんて感じで、日常の中、「自分の力だけ」で夢に向かって「少しずつ」前進を続ける吉田太郎とふれあうことをきっかけに、ララは自分の可能性についてもう一度考え直そうとする。
別にこんな話でなくてもいいですし、必ずしも芸能界を卒業する話でなくてもいいとは思います。タレントであり続けても、可能性を開くことはできますから。ただ、こんな話があってもなくても、美保は、自分の走ってきたレールについて考え直す日が、きっとやってくるでしょう。
その時、きっと美保は、本当の笑顔を見せてくれる。そう信じています。
いつか、かならず。


第二章 作品の総括

1.  ララの世界観
拙文、「マミからララへ〜」で述べたように「ララ」は、15年前の「魔法の妖精クリーミーマミ」の延長線上に生まれてきた作品です。
「こだわりの書10」に望月さんが寄稿された「何のやくにもたたないリスト」を見れば明らかですが、スタジオぴえろは「魔法少女シリーズ」、言い換えれば「マミ」のリメイクに強い執着心を持ち、何度も企画にあげてきました。これはなかなかおもしろい事実です。思えば、「うる星やつら」が大ヒットしたにもかかわらず、マーチャンを持っていなかったが故に経営を悪化させ、その苦境を自社企画の「マミ」が救ったという、昔の話がありました。以来「版権が取得できない作品はやらない」というスタイルを、今も守っている状況を考えても、「マミ」という作品に対するぴえろの思い入れは、ひとしおなのでしょう。
だからこそ15周年というアニバーサリーに「ララ」が生まれたわけですが、ここに一つの落とし穴があったように思うのです。つまり、「魔法少女シリーズ」を復活させることにこだわるあまり、「魔法少女シリーズ」そのもののスタイル、世界観に「無批判」だったのではないか、ということです。
変な言い方ですが、時代とともに価値観も変わります。過去において、どんな優れた物語であったとしても、それを今、焼き直して良い作品ができるか。これは、難しい問題です。もちろん、過去の作品をそのまま焼き直す場合は少なく、大体は今風のテイストが加味されているのですが、その「今風のテイスト」が作品の世界観とぶつかり合うことはないのか、かなり慎重な配慮が要求されるのです。
あくまで想像ですが、「ララ」の場合、「とにかく魔法少女シリーズを復活する」という大前提の上で、具体的な作業がスタートしたのだと思われます。そこでスタッフは、魔法少女シリーズが持つ「既存の世界観(例えば、少女が魔法で大人になること)」に、何らかの「理由付け」を用意する必要を感じたのではないでしょうか。
美保の唱える魔法の呪文は、パンプルポンプルでもテクテクマクマク(^^;でもなく、「時の記憶に思いを込めて、成長」です。これは、「時の記憶」つまり、今はなくなってしまった時間(過去)に存在した思い(想念)が、ある種のエネルギーとして存在し、それの力を借りること(「思いを込めて」)で、「成長」(局地的な時間の跳躍)をする、という意味だと思われます。スタッフが従来の意味不明の呪文ではなく、「意味のある言葉」をわざわざ呪文に採用したところから見ても、この点にスタッフは強い意識を持っていたと考えていいでしょう。
さらに「時の記憶」がもたらす魔法が、なぜ「大人になること」なのか。一つには「時の記憶は時の魔法だから、時間を操るのは当然だ」ということでしょうが、これは拙文でも述べたように、「思春期の凝縮」を意味していると思われます。つまり、「少女から大人へ」という、最も身体的変化が激しい時期の中に、「時の記憶」の最も強い部分が入っている、という解釈です。
これは、なかなか練られた設定です。魔法の力の根元を「時間の世界」に求めることは、「大人に変身する」という設定とリンクしやすいですから。ただ、前述のように、ここには、大きな矛盾があります。
重複をおそれず、ここで「ララ」の世界観が持つ問題点を整理させます。
まず、「時の記憶」は、あくまで通常に連続する時間軸の中で生まれるものだということです。なぜなら、時間軸を無視してしまうと、「過ぎ去った時間のやり直し」を認めることになり、価値を失うからです。とすると、美保が魔法と出会ってからの時間は、ごく断片的ながら時間軸を超越していますから「時の記憶」にはならない、という解釈が生まれます。「時の記憶」は「経験」と連動します。つまり、美保が魔法を得てからの経験は、美保の経験としてカウントすべきかどうか、非常にあやふやになってしまうのです。これを極論すれば、(美保にとって)ララの物語自体が、存在価値を危ぶまれることになります。
こういう根本的なひずみが、なぜ生まれたのか。その原因は、魔法の力の根元を「時間の世界」に求めたからに他なりません。もちろん、ララになる「成長」は、身体的な成長のみで、精神的な成長ではありません。でも、身体的な成長は、大人の経験を促し、9歳の少女が「知るには早い」出来事を経験させてしまうのです。
この矛盾が、「ララ」を「美保の成長物語」として、非常に歯切れの悪い内容にしてしまいました。美保は様々な経験をしますし、話によってはそれなりの「経験に対する答え」を見つける場合もあるのですが、後に続かないのです。 
思えば、「ララ」の物語全体で「連動」しているのは1話と最終話だけで、それ以外のエピソードはすべて単発、というか連動、呼応するエピソードを持っていません。これは作り手が「美保が経験を蓄積すること」を躊躇している証拠なのではないでしょうか。言い換えれば「美保はララに変身することで人間的成長を遂げていいのだろうか」という疑問が、作品全体にブレーキをかけてしまったようにも思えるのです。
HPの会議室で、Jeanさんが「ララは各話で評価したい」と発言されていましたが、確かに「ララ」は「連続した物語」としてのまとまりに欠いています。設定や世界観の整合性が高いにも関わらず、こんな印象が残るのは、やはり、エピソードが連続せず、美保が経験を蓄積しないことに原因があるようです。
世界観の構造矛盾は、作品全体に大きなひずみを生んでしまったのです。
2.  視聴対象は誰か
聞けば、「ララ」は4クールを目標に企画されたようですが、実際には2クールで終了しました。原因は視聴率だと聞いています。たまたま仕事柄、手元に関東地区の視聴率表(ビデオリサーチ)があるので参照すると、1話が1.8%、最終話が3.2%、最高視聴率が8月30日で4.7%、最低は1.8%で何回かあり、平均は多分2.3%ぐらいのようです。確かにANBの「ひみつのアッコちゃん」が平均10%、「夢のクレヨン王国」が平均9%という数字から比べると、これはかなり辛い数字です。ただ、これは「テレビ東京」ゆえの不利も含むでしょうし、実際、後に続く「ポポロクロイス物語」は1.4%平均、「ガサラキ」も2.0%平均とあまり変わらないのが実状です。それにアニメは視聴率だけで判断することはできません。「おもちゃが売れる」でもいいし、「コミケでウケる」でもいいのです。(コミケで人気になれば、LDのセールスが期待できますから)しかし、「ララ」はおもちゃ屋が商品を出さず、コミケでも大きな扱いはなかったようですから、どちらにしても「人気がなかった」ことは間違いありません。
作品を人気で評価する気は全くありませんし、そのことを云々言うつもりはありません。ただ、ひとつ気になるのは、「『ララ』は一体、誰を対象に作られたのだろうか?」ということです。実のところ、僕には「ララ」の「視聴対象」が見えないのです。
検証していきます。まず、現在の主たるアニメ視聴層たる「オタク」層に訴える力が弱かったことは事実です。友人のアニメーターは「高田明美をキャラクターデザインに選んだ時点で、オタク層の興味は半減しただろう」と言いました。これは、正しいと思います。今の高田さんの絵は、個人的に嫌いではないけれど、「ウケない」絵柄であることは、僕も認めます。それに「ララ」は、世界観も物語も「地味」だし、どう見てもオタク心をくすぐる要素に欠けるようです。ただ、これは作り手が意図してやっていることなので、批判の対象ではありません。この作品はオタク人気を期待して作られてはいないのです。
ならば、子供に受け入れられるでしょうか?僕はここを問題にしたいのです。
ちょっと脱線しますが、最近、92年にサンライズが制作した「ママは小学4年生」という作品を見ました。この作品は、設定、世界観は雑だし、ご都合主義の嵐は吹きまくるし、シナリオのバランスは欠くし、演出も稚拙だし、作画もボロボロなのですが、僕は気に入りました。それはなによりも、この作品には「小学4年生」という明確な視聴対象が存在し、そこに伝えるための誠意があるからです。僕は正直、「この作品を小学4年生の時にリアルタイムで見たら、どんな感想を持っただろうか」とまじめに考えてしまいました(^^;そして小学4年生の時に、これを見ていた子ども達を、うらやましく思いました。

その点「ララ」は、シナリオはもちろん、世界観、演出、作画のどの点を取っても勝っています。しかし、視聴対象が見えない分、魅力を感じないのです。
本来ならば、「ララ」の視聴対象は、美保と同年輩の少女だと思います。しかし残念ながら、「ララ」は10歳前後の少女が見て魅力のある作品ではなかった。これは、若干の聞き取り調査と、僕の判断ですが、おおむね間違ってはいないと思っています。では、なぜ子ども達に受け入れられなかったのでしょうか。少し考えてみたいと思います。

3. 9歳の少女、美保
 最大の問題は、美保が「9歳の少女らしくない」ということではないでしょうか。前章でもちょっとふれたように、美保は9歳にしては不自然なくらい、しっかりした少女です。(単純に比較はできないにせよ)優と比べると仕事に対する真剣さは段違いだし、子供らしい「思慮の浅さ」とか「短絡的なところ」がほとんどない。それに何より、美保が子供らしくないのは、美保自身がかなり明確な「価値観」を持っていることです。
 大人と子供の違いとは何か?僕は「価値観が確立しているかどうか」だと思うのです。自分にとってなにが一番大切か?それを見極め、価値に順位をつけられることが大人の証だと思います。その点、子供の場合、価値観が確立していないから目先のことに心を奪われがちです。
 何度も比較の対象に出して恐縮ですが、「ママは小学4年生」(以下「ママ4」と呼称します)の場合、主人公なつみは、思慮は浅いし、他人を思いやる気持ちはあっても、他人の気持ちを読みとる能力は、まだまだ欠けています。そのため、なつみが勘違いをしたまま終わったり、「わからない」ままで終わってしまうエピソードが非常に多いのです。その点、「ララ」の場合、美保が勘違いをしたまま終わる話は「カッパが出てきた日」ぐらいだし、美保の理解を超える話(「その夢は終わらない」など)の場合は、意図的にリアクションをはぐらかしています。
 その代わり、と言っては変ですが、「ママ4」の場合、思慮の浅いところや理解力に乏しいところを実に有効に物語に活用しているのです。「ママ4」で最も優れたエピソードである47話「おばさんの大変身」などは、なつみのボキャブラリイ不足が事件の発端であり、そのことがエピソードを秀逸なものにしてくれたのです。美保の場合、この手のミスをすることはまずないので、子供にとって感情移入がし難いように思えます。そこには、どうも子供らしい視点が感じ取られないのです。
 では、なぜ美保が子供らしくないのか?これもまた、物語の構造が原因ではないか、僕はそう思います。
 美保が直面する事件、出来事は、非常にリアルなものです。美保はその事件に対して逃げることなく、正面から向かい合うことを要求されます。ここで重要なのは、(原則として)美保は誰の手も借りることができない、ということです。助言を受けずに与えられた問題に立ち向かうためには、明快な価値観とそれに基づく判断力が要求されます。また前述のように、エピソードに対する結論を次のエピソードに持ち越せない事情がある以上、問題は各話で解決しなければならない。美保が自立した「大人」としての判断力を持たなければ、話はまとまらないのです。これでは子供らしい浅はかさなど、持ち込むことは難しいでしょう。
 個人的な意見を言えば、コミさんや不思議さんをもっと有効に使うべきだったのではないかと思います。彼らをうまく使うことで美保の負担を軽くすることができたのではないでしょうか。
 ただ、そうすると、美保は経験を積んで成長してしまうし、それはやはり都合が悪い。結局のところ、美保が不自然に大人びていることは、経験を上滑りさせるための「方便」として用いられたようにも感じてしまうのです。
 余談を加えるならば、「ララ」で最も視聴率が良かったのは、「スクープ!ララの正体」でした。全エピソードの中で最も「魔法少女にありがちな」エピソードが最も好まれたということでしょうか。ここらへんにも「子供がなにを求めているのか」の一端が伺えるようにも思います。

4.  シナリオ考察
 本来ならばストーリーについてもふれたいのですが、何度も言うように、「ララ」はエピソードの連続性に欠いています。そこで、個々のシナリオについて、簡単に感想を述べたいと思います。
 僕が個人的に最も好きなエピソードは、「みほの最初の1人旅」です。この話は魔法も変身もほとんど関係ない話なので、どちらかというと「番外編」と言うべきエピソードなのですが、だからこそ美保が子供らしいリアクションをしてくれるので好感が持てます。特に美保が本来人見知りをする子だった、という設定は、途中からかなりあやふやになってしまうのですが、そこをうまく活かしたエピソードだったことも気に入っている理由です。ただ、逆に言えば、こういう番外編でしか子供らしい美保を描くことができない、というジレンマを象徴したエピソードといえるかもしれません。
 もう1本、僕が最も構築性の高いエピソードだと感じたのは、「お母さんと一緒!?」です。この話は、問題提議の仕方、伏線の張り方、落ちの持っていき方と、実に緻密に作られていますし、そういう意味では、非常に優れたシナリオです。しかし、ここには美保のキャラクター性というものが、ほとんど加味されていません。キャラクターたちは整然と配置された「駒」に過ぎず、何の自己主張もしてこない。あえて酷な言い方をすれば、「これは優れたパズルであって、ドラマではない」でしょう。だからこそ、きれいな「オチ」に、僕は共感できませんでした。同様に予定調和にこだわりすぎた「ララのファーストコンサート」も「きれいにまとまりすぎ」の感は否めません。
 これらのエピソードは、村井さだゆきさんのシナリオですが、言ってみれば両極端の例だと思います。村井さんは行き過ぎが多いようです。それに比べると、望月さんのシナリオは、どちらかというとこの中間というか、うまく逃げることで問題をうまくごまかしているように思えます。

5.  最後に
 少々辛辣過ぎたようなので(^^;きちんとフォローもしておきたいと思います。
 個人的におもしろいなと思ったのは望月さんの「お姉ちゃんのボーイフレンド」でしょうか。拙文でも述べた「キスには魔法を解く力がある」という望月さん好みのエピソードが織り込んであったりして楽しめました。「お姉ちゃんの忘れ物」も好きなエピソードです。
 さんざん批判しておいて恐縮ですが、僕は「ララ」が好きです。それだけは、はっきり述べておきたいと思います。なぜ好きなのか、それは作り手の誠意を感じるからです。美保を見つめるスタッフのまなざしの暖かさは、決して安易な取り組みから生まれるものではありません。どちらかというと安易な発想から生まれたと思われる「ララ」ですが、スタッフはそれを考え抜き、工夫を凝らしたのだと思います。
 もちろん、遺憾に思うことはあります。世界観の矛盾はもちろんですが、サブキャラに対する書き込みが(2クールという期間の短さもあって)食い足りないことも残念です。とはいえ、「ララ」には無駄なエピソードがほとんどありません。まあ2クールという長さを考えればやむを得ないでしょう。本論と関係ない無駄なエピソードに情熱を傾ける某A野氏とは、根本的なところで姿勢が違うのですから。
 今のアニメーションに欠けているのは、「観客に何かを伝えたい」というメッセージだと思います。教条的であることが正しいとは思いませんが、観客に媚びへつらうことで観客の関心を引こうとする昨今のアニメーションに、僕はどうしても好感が持てません。「ララ」は少なくとも、「何かを伝えよう」とチャレンジした作品でした。結果を出せたとは言い切れないものの、その姿勢に、僕はできる最大のエールを送りたいと思います。
 スタッフのみなさま、お疲れさまでした!!
そして、長い話を聞いていただき、本当にありがとうございました。


「こだわりの書11」(08/16/98発行)より

マミからララへ〜
15年目の魔法少女は、どこへ行くのか

by かっきい

序章―ララへの誘い
 「魔法のステージ ファンシーララ」。この作品が「魔法の天使 クリィミーマミ」の(色々な意味で)延長線上にある作品だということは疑いないでしょう。ここでは、それを前提にお話をしたいと思います。
そしてもうひとつ、「ララ」は「望月さんの作品」だと考えています。
 この2つを前提に、「望月さんが何を考え、どんな風に『ララ』の構成をしたのか」僕なりの視点で、考察をしてみたいと思いますので、ちょっとお付き合い下さい。

※ あえて「望月さんの作品」と言い切ったのは、あて推量ながら、僕は「ララ」の世界観、シノプシス、個々のエピソードに、望月さんの強いイニシアチブを感じているからです。監督である大森さんには恐縮ですが、失礼ながら、この前提で話をさせてください。

 「ララ」が始まった時、僕は正直言って、あまり期待はしませんでした。まあ永年の望月ファンとして、「いちおうチェック」ぐらいの気持ちだったのです。
特に1話は説明的でリズムが悪く、「望月さんの悪い部分が出てるなあ」と感じました。望月さんの場合、後半で設定を「有効活用」するために、最初のうちに設定をきちんと整理しようとする傾向があり、そのために「動き出し」がくどくなってしまう弱みがあるようです。
 さらにいえば、設定があまりにも地味。「リアルに考えればこうなのかも知れないけれど、こんな話が面白いのかなあ」これが偽らざる感想でした。こういう印象を持たれた方も、多いのではないでしょうか。
特に気になったのは、物語に登場する「魔法」が、あまりにも機能制限が多いことです。魔法というものは、能力が限定されればされるほどエピソードが地味になったり、話のバリエーションが乏しくなったりと、話を作る上での足かせになりやすいものです。あえて制約の多い設定を選んだ真意を、正直言って僕は測りかねました。

 ところが、1クールを過ぎ、エピソードが積み重なることで、作り手の意図がほの見えてきたのです。そして、この作品は、僕が最初に持った印象とは全く別の、新しい魔法少女へのアプローチだと気付きました。
 まったく自分の不明を恥じるところです。今さらながら「ララ」の奥深さ、望月さんの周到な計算に感動しています。
 おっと、前置きが長くなりすぎました。では、順に聞いて下さい。

1章―ララの問題提議
1. 魔法が使えない魔法少女
 周知の通り、「ララ」で美保は「大人になる」ことと「スケッチブックに描いたものが実物になる」(ただし変身を解くと魔法は全てリセットされ、物は消えてしまう。機械類など、複雑な物は実物化できない)、今のところ、この二つしか魔法が使えません。
 この設定は、従来の「魔法少女物」から考えれば「魔女の宅急便」なみに窮屈、というか限定された能力です。さらに、それで日常を送るだけならまだしも、ララはマミと同じようにアイドルもやらなくちゃあいけない。
 「マミ」事実上最後の作品「ロンググッドバイ」に『マミのお仕事だって(魔法の)コンパクトがないと、ちゃんとできないもん』というセリフがあったことが思い出されます。
 マミは魔法が使えてこそ、短期間でスーパーアイドルになったのです。ララの場合、魔法が使えない以上「一気にスター!」というわけにはいきません。案の定、ララは芸能生活を下積みから始めています。元々芸能界志望だった美保(ララ)だからこそ下積みもやれるでしょうが、そうでない優(マミ)では話が成立しなかったでしょう。
 それに優とマミのかけもち生活を魔法でフォローすることも可能でした。それができないララ(美保)は、マミにない余計な苦労を背負い込んでいます。
 これはいみじくも、望月さん自身が「ある程度柔軟に魔法が使えないと、アイドルと小学生は両立するのは難しい」と暗に認めているわけです。

2. 魔法の価値
 「ロンググッバイ」には、もう一つ、重要なエピソードがあります。それは変身騒ぎを収めるためにネガとポジがやって来た時、『また、魔法を使えるようになりたい?』という誘いがあったのに対して優が、こう言ったことです。
 『だけど困る、私…私ね、自分の魔法見つけたような気がするんだ。フェザースターの魔法は確かに素敵だよ。でもね、でもホントに素敵なことなら、誰にも内緒にすることないと思う。みんなに教えてあげたいし、みんなで素敵になれたらもっとうれしいと思うんだ。』
 優は、魔法をもらうことを、はっきりと断っているのです。
 「敵を倒す」「何かを集める」みたいな明確な「目的」を持たず、漠然と「与えられる」魔法は、突き詰めて考えると、単なるエゴの実現に過ぎない。その事を優は知ったからこそ、魔法を拒否したわけです。「自分の都合のための魔法」よりも、自分が一生懸命取り組む日常の方が価値がある、と。
 これを煮詰めると、安易な魔法は、日常にとって不要、というよりマイナスの因子ですらある、と解釈することもできます。いずれにせよ、「もう、魔法はいらない」のです。

3.魔法少女の存在意義
 それに、「子供が魔法で大人になる。」という設定そのものも、今となっては扱いにくいところがあります。
 「不思議なメルモ」をルーツ?(違うかも)とする「大人に変身する魔法少女」(これを仮に「成長型魔法少女」と呼称します)の系譜は、葦プロの「魔法のプリンセス ミンキーモモ」を出発点に、スタジオぴえろが引き継ぐ形でシリーズが続きました。しかし、この世界観は、「モモ」の時点で既に問題を抱えていたのです。
 確かに子供にとってみれば、「子供は望みを叶える力がない。大人は何でもできるから早く大人になりたい。」という願望を持つことは自然かもしれません。
 しかし、大人の視点で言えば、「けっして大人が何でもできるわけではない。むしろ子供の頃の方が夢を信じられる幸福な時代だった。」という考え方の方が優勢になってしまう。
 根本的な価値観の違いが、そこにあり、そして物語を作るのは大人なのです。
 「モモ」には既に、子供の素直な願望を描きながら、うしろめたい気持ちが見え隠れしていました。そして、「大人への変身」よりも「夢」というテーマを追うことに力点を移した作品は、子供を置き去りにする結果になってしまいました。
 ましてや世知辛いことが子供にも伝わってしまった現在、「大人になれる魔法」に魅力を与えることは、より難しくなっています。
 「成長型魔法少女」物は、きちんと考えれば考えるほど、「煮詰まっていく」素材といえるかも知れません。

2章―ララの挑戦
1. 魔法のない魔法少女
 最初に断ったように、僕は「ララ」を「マミ」の延長線上にある作品、と理解しています。ゆえに、「ララ」は「マミ」で出した結論を受け継ぐ必要があると考えます。(恐らく望月さんも、そう考えているでしょう)さらに言えば、「今さら大人になる魔法の物語」を作った意義も示してもらわねばなりません。作り手は、どう考えたのでしょうか。
 繰り返しますが、ララの魔法は、つまるところ「大人になれる」ことだけです。それ以外の魔法は、いわばそれをフォローするための補助的な能力に過ぎない、そう考えて差し支えないでしょう。他に魔法は使えないのです。
 その結果、物語の中にあるのは、小学生としての「美保の日常」と、アイドルとしての「ララの日常」だけです。二つの日常の中に狭義的な(万能という意味での)「魔法」は、存在しない、つまりこの作品は、「魔法のない魔法少女の物語」だと言えます。
 しかし、魔法がなくては、魔法少女とは、やっぱり言えないのです。ならば、魔法はどこにあるのでしょうか。

2.ララの魔法
 最初に作り手の意図に触れたような気がしたのは、10話「すったもんだのキャンペーン」でララとヘアメイクのコミ(小宮山)さんがかわした会話でした。
人魚の姿で水中を泳ぐプロモビデオの撮影を終えたララが言います。
 『水の中にいると、なんか変な気分になるね。〜なんか忘れているなつかしいことを思い出せそうな…お父さんもお母さんも生まれていない時代に、私はもう生まれていて、誰もいないのにちっともさみしくなんかなくて〜以下略』
 すると、コミさんは
 『思春期の少女期ってね、大人になって、あれはなんだったろう、って思いだそうとしても思い出せないような、とぎすまされた感性を持つ時期があるものなんだよ』と解説してくれるシーンがあったのです。
 その時、ふと疑問に思いました。
 「確かに思春期の少女が不思議な感性、能力を持つ、という考え方は肯けるが、それは何歳のことだろう。」ということです。
 スティーブン・キング原作、ブライアン・デ・パルマ監督の「キャリー」で、超能力を発現して暴れる少女は、確か14歳だった。 筒井康隆原作、大林宣彦監督の「時をかける少女」で、タイムトラベルを経験してしまう少女は、たぶん15歳ぐらいだろう。過去において思春期の少女の不思議な感性、体験を描いた作品は数あるけれども、設定年齢は14〜15歳。美保は9歳で、ララは(たぶん)17歳ぐらいだから、どちらにせよ、うまく該当しない。
 そこで、ふと気付いたのは、「もしかしたら、該当しないことに意味があるのではないだろうか」ということでした。これからは推論です。

3.外在する魔法
 9歳といえば、思春期の少女の入口にさしかかる時期。そして17歳は思春期の終わりに当たります。つまり美保からララへの変身(成長)は、思春期を丸ごとジャンプしていることになるわけです。
 もし少女が思春期に不思議な感性(例えば異世界をかいま見る力)を持っているとして、ただそれは思春期全体にかけられた薄いベールのようなもので、大部分の少女がその力をはっきり認識することなく過ごしていくとしたら。
 そして作り手が、思春期の感性がピークになる(と考えられている)14〜15歳を意図的にジャンプしていたとしたら〜考えられることは一つです。
 それは、美保がララに変身することが、不思議な感性(能力)を持つ時代(思春期)を「凝縮させた」、あるいは「ねじ曲げた」ことになる、ということです。
 12話「あなたはだあれ?」で美保がパラレルワールドのような「時のはざま」的世界に紛れ込んでしまったことも、これで説明できます。
 つまり、ララが「時の記憶が濃密な場所(古い病院:現在を持たない廃墟には、過去の記憶だけが蓄積されているから)」で変身を解いてしまったがために、病院の記憶と美保の能力が「引かれあって」起こった事件、と考えられるからです。(まるでハレー彗星の力と、優のマミの記憶が「引かれあって」優がマミに変身してしまったように。)
 同様に14話「おもちゃの国のみほ」で、美保が不思議な夢の世界に入ってしまうのも、風邪が原因で変身が強制解除されてしまったため、という解釈が成り立ちます。
 これらの話から推測できるのは、「ララ」の世界における魔法とは、ララ(美保)が使える(内在する)魔法ではなく、思春期を飛ばして子供(美保)から大人(ララ)に変身してしまうことで「起こってしまう」魔法(というか不思議体験)、つまり「外在する」魔法を指しているのだということです。
 従来の「成長型魔法少女」が「大人に変身するという結果」、もしくは「変身後に使える能力」を魔法と考えていたのに対して、望月さんは「大人に変身する、という形で思春期を濃縮してしまうこと」を魔法と考えたのではないでしょうか。これは、「成長型魔法少女」物に対する、全く新しいアプローチだと思います。

3章―ララの課題
1. ララはどうなるのか
 今、「マミ」の物語をやり直す意味はあるのか、という問いに、望月さんは見事に答えてくれました。「既存の設定を有効活用する」望月さんの面目躍如、という感じでしょうか。
 ただ、ここで僕には疑問があります。
 それは、「この素材を使って、どんな物語ができるのか」と言うことです。
 確かに美保は、変身することで異世界のドアを開く能力を持ちました。その事を使って、異世界をかいま見る話は作れますし、その事の意義は認めます。望月さんが幽霊や、妖怪などの「異世界との交流」を素材として好むことは周知ですし、そのために有効な設定、世界観であることは、評価できると思います。
 ただ、それだけでは「思春期の凝縮」という設定を有効活用している、とは言い難いのです。異世界のドアが欲しいだけなら他に設定はいくらでも用意できるでしょうし、「成長型魔法少女」の世界観に意義を持たせた「だけ」では、(酷な言い方をすれば)単なる「いいわけ」に過ぎないのではないでしょうか。

 「思春期の凝縮」、この設定を活かすためには、「思春期の不思議」という大前提と正面から向かい合う必要があります。
 「なぜ、思春期の少女に不思議な感性があるのか」、「思春期の少女がかいま見る異世界とはなんなのか」、「なぜ思春期が終わることで、その力は失われるのか」、そして「思春期の不思議を描くことで、作り手は何を伝えようとするのか。」
 そこには「この世界観だから話せる、この世界観でないと伝わらない」素敵な話があると思うのです。
 望月さんがこの素材をどう料理してくれるのか。今のところ、ヒントはいくつか出ていますが、具体的なアプローチに至っていません。ここでも僕なりの想像で、読み解いていきたいと思います。

2. 思春期との訣別
 「なぜ、思春期の少女に不思議な感性があるのか」、これは難しい問題です。(何しろ少女をやったことがないもんで(^^;)一般論から考えれば、こんな感じでしょうか。
 すなわち、「少女が大人になる、ということは、まず身体の変化が重要である。生理を始めとして、子供を産むために身体が作り替えられるのだ。この成長は、男よりも女の方が、変化の幅が大きい。そして、肉体の変化は、心理にも大きく作用する。その結果、思春期の心理は不安定になるが、その不安定さが不思議な感性を産むことがある。」(うーむ、殺風景な解釈だな、これは)どうも既成の解説では、適切でないようです。方向を変えて考えます。
 たびたび引用して恐縮ですが、「ロンググッバイ」の印象深いカットを紹介させて下さい。
 作品のラスト、俊夫にキスされようとする時、優は一瞬、淋しげな表情で視線をそらします。そして、それが全ての物語の最後に優が見せた表情でした。
 優は知っていたのです。キスをしてしまえば、もうフェザースターの魔法とは、永遠に逢えないことを。「白雪姫」でもわかるように、王子様のキスは魔法を解く力があるようです。望月さんは、それに重ねるように「少女期との訣別」という意味も表現していました。僕の大好きなエンディングでした。
 しかし、それにしても、優が最後に見せてくれた表情が「淋しげ」だったことは、印象的です。全てを承知して、自ら望んだ結果だったにもかかわらず、優は晴れやかな表情を見せてくれなかったのです。僕は改めて、「どんな明るい未来が待っていたとしても、少女期と訣別することは淋しいことなんだな。」と強く感じました。
にもかかわらず、望月さんは再び美保という少女を魔法の世界に誘いました。きっと美保も物語の最後に、同じ思いをするのでしょう。まあ、望月さんの意向で作品が生まれるわけではないし、責任を問うのも筋違いですが、どうせなら美保に淋しい思いをさせる「責任?」を取ってもらいたい。望月さんは、どう考えているのでしょうか。

3. 喪失することの価値
 これは、想像です。根拠が弱いことを承知の推論であることをお許し下さい。
 僕は、「なぜ少女は思春期に不思議な感性を持つのか」ずっと考えてみました。その結果、考えついたことがあります。
 それは、「思春期に不思議な感性を持つのは、それを『失う』ために、いや『失うことを経験するために』持つのかもしれない。」ということです。
 少女が大人になるためには、「何かを失うこと」を経験する必要があるように思えるのです。うまく伝えるのが難しいのですが、女性は子供を産みますよね。出産というのは「誕生」ですが、同時に「死」をくぐり抜けることでもある、という考え方を聞いたことがありませんか。つまり、誕生するためには死を経験しなければいけない、ということです。
 平たく言えば、一般論によくある、「何かを失うという経験があってこそ、何かを得ることの価値を知ることができる」という考え方ですね。あるいは、「何かを得るためには、代償として何かを失わなければならない」という解釈もあるかもしれません。
 これをつきつめて考えた結果、「少女は『何かを失う』ことで『何かを得る』ことの大切さを知る『必要』があり、そのために『一時的に』不思議な感性を持つのではないだろうか」という推論にたどり着きました。
 この考え方が正しいかどうか、僕にも自信はありません。ただ、「ララ」の物語には「喪失」をテーマにしたエピソードが目につく気がするんです。第8話「チビ猫リルと魔法のひみつ」とか、第14話「おもちゃの国のみほ」とかね。
 僕の想像が正しいかどうかはともかく、「ララ」のスタッフは必ず答えを用意してくれていると信じます。
 1ファンとして期待しながら待ちたいと思っています。

結章―ララへの提言
 最後に、僕が一番気にしていることを聞いて下さい。
 これまで書いてきたように、「ララ」は「マミ」を受け継ぐ作品として、周到な計算を元に、高いレベルで構築されている作品です。たとえ僕の想像が間違っていたとしても、作り手にきちんとした考え方、方向付けがあることは、間違いないでしょう。
 ただ、気になるのはその先なのです。
 例えば、僕の想像が正しいとして、また、それがきちんと表現されたとして、「作り手は、これを使って何を伝えようとしているのか?」僕には、うまく想像できないのです。
 どんなに優れた世界観、設定であろうと、それは物語を語るための「道具」に過ぎないと思います。「何かを伝えたい」という思い(テーマ)あってこそ、その為の技術が求められるのです。
 現在のアニメーションは、技術だけがあって、テーマが存在しないのが「普通」になってしまいました。それが時代の流れ、といってしまえばそこまでですが、僕は淋しいです。「ララ」にテーマはあるのでしょうか?僕はその事がずっと気になっています。答えは作品が教えてくれるでしょう。僕はそれを待つだけです。

おまけ
 あと、ちょっとだけ個人的な感想を。
 僕は「ララ」の中で「夢野美樹」ちゃんが、一番のお気に入りです。「本当はいい子なんだけれど、厳しい芸能界で生きていくために『キツイ』性格を演じている」という役割なのですが、それが記号的にならず、奥行きが感じられる。ホントに意地悪だったり、意地悪になりきれなかったりと、肉付けがリアルにできていて好感が持てます。もっと彼女がエピソードに絡んでくれると嬉しいですね。

 長々と聞いていただき恐縮でした。             (了)


「こだわりの書12」(12/30/98発行)より

ファンシー・ララ感想/シリーズとしての魔法の意味等

by ひやまじん


始めまして、”ひやまじん”と申します。
ちょっとした経緯で、この望月先生ファンクラブの会誌「こだわりの書12」に、原稿を
書かせて頂く事になりました。 正直に言いますと、望月先生の・・・言うよりは
ファンシー・ララのファンな訳で、他の方の掲載内容と”ベクトルの向き”が合わない
かもしれません。
ですが、ファンシー・ララのファンであると言う”絶対値”だけで、この場をお借りして、
少し書かせて頂たいと思います。よろしくお願いします。
 
まずはファンシー・ララに出会った経緯についてちょっと説明させて下さい。
私の場合は、日曜日の朝9:30分と言う(誰が見るのか?解らない様な)時間帯に
放送されていたララを、ある日偶然見てしまいました。
最近ではアニメどころかTV自体あまり見ないのですが、世間一般人よりは、アニメ
好きですから、そのまま全話見てしまわないと気がすまなくなり、あのラスト
(最終回26話)でもっと深く はまってしまった・・・。そんな一人です。
ですから、ここでの記載内容の視点もそれに準じるものです。
 
更に、もう少しだけ前置きさせて下さい。念の為・・・言っておきたい事です。
 
この先、”ファンシー・ララ”と言う作品について、以下 色々と書き連ねる訳ですが、
ファンシー・ララは、決してそんな小難しいお話ではありません。
従来の魔法少女と同じ作風を期待すると、ちょっと面白くない方もいらっしゃった
かもしれない訳ですが、そこのところを受け入れてしまうと、ほとんどの方が楽しめる
作品だと思ってます。私的にはラストも良いです。2番目位に印象に残るラストです。
えっっ 1番は何??ですか・・・・。 それはララを見ていた人には解ると思いますよ。
「ないしょ!」あるいは「自分の好きな道を選んでほしいな・・なんて思っただけさ・・ 」
って事です(笑)。話が外れました・・すみません。戻します。
 
私の持つイメージで簡単に言えば、ファンシー・ララと言うお話は・・・、
甘いだけでは無く、苦みもちょっと入った・・・。
楽しいだけではなく辛さもちょっと入った・・。
魔法少女物の様で、魔法少女物としてのウエイトはそんなに重くない・・・ 。
出所のはっきりしない魔法の割りには、全編通して少しづつ魔法が語られている・・。
直接的ではなく、むしろ間接的な役割として魔法が機能する・・・。
そんな微妙なバランスが感じとれるちょっと文学的(?)なところを持ち合わせた
26話全編ちゃんと見ていただければ、まず裏切られる事は無い(と思う)作品です。
 
裏切られるとすれば、”私”の様な小難しい事を考えてしまう人達と、後、本当の子供
達位だと思ってます。(子供達の件については最後の方にもう一度記載します。)
もっとも視聴率から言うと、そんな心配は今のところ無いと思いますけどね(笑)。
ですが、ララを見て来た方は、もう一度作品を思いだしながら読んでいただけると
うれしいです。見ていない方の場合は、私とバンダイビジュアルさんの間に関係がある
訳では無いのですが、LD,VC買いたくなって頂けるとうれしいですね。
 
しかし、 ほとんどのファンの方々には、「何を言ってるのか?わからない・・ 」などという
状況も十分考えられます。ですから、もう既にファンシーララ大好き人間な方にとって、
私の意見は、ただの雑音かもしれません。
もちろん、それでもOKな訳ですが、見方によっては、これだけの事が語れてしまう
と言う”珍しい魔法少女物”にはもうお目にかかれない可能性も高い訳です。
ですから、ちょっとの間だけ我慢してお付き合い下さい。
 
やっとここから本題です。
ララのテーマはいくつも用意してあったとは思うのですが、ここで私が記載する内容は
おおよそ下記の様な部分ですので、そのタイトル毎に記載する事にします。
1)ファンシー・ララと言う作品にとっての魔法
2)主人公 みほちゃんにとっての魔法
3)スタッフの方々の苦労?バランスの取り方
4)大切な気持ちとは??
***********************************
 
1)ファンシー・ララと言う作品にとっての魔法
 
ストーリ全体の流れから言うと、”時間の記憶”と”成長”と言うKey Wordで
連想できる内容及び物事なら、どの様にも影響を与えられる・・・。
それらが、ファンシー・ララでの魔法だったと考えています。
この作品の中では、実は、”6才ほど成長できる事”の方が、その中のひとつでしか
無い訳です。結果、第19話「お姉ちゃんの忘れ物」などは、あえて、、”時間の記憶”と
”成長”と言うKey Wordにあわせて、”6才ほど成長できる事”を避けた回も
出てきます。 変身しない魔法の回の方が、違和感無いと感じられる訳です。
 
もちろん、ファンシー・ララを見てきた人達みんなが、同じ様に感じ無い可能性も
あります。でも、私はそう感じました。
 
ただ、そうだとすると、不思議さんの持っていた鞄の中身が、たくさんの魔法ペンや
スケッチブックだった事が(ちょっと)残念の様な気がします。
はっきりさせないか? あるいは、吉田太郎君の目には”別のもの”に見えた方が
よかったかな??と思う訳です。吉田太郎君にとっての”時間の記憶”と”成長”
と言うKey Wordから連想される魔法(夢)は、きっと別のものだろうからです。
吉田太郎君に野球選手のユニフォームを描かせるのはちょっと無理と思いますしね。
まあ、今となっては、みほちゃん以外の少年少女が持てば、同じ魔法アイテムでも
別の使い方があったはず・・と思うしかないですけど。
 
更に リルの回(第8話:ちび猫リルと魔法のひみつ)についての感想を記載します。
この回は、”いつかは消えてしまう魔法のはかなさ”みたいなものを、最終回に先駆け、
テーマにおいた様に思う一方で、「スケッチブックからどんなものが出せるのか??」
と言うみほちゃんの疑問を前提に、ストーリが展開してます。
つまり【時間の記憶と成長】には、あまり(あるいは全然)関係無い魔法の使い方の回
になっています。”猫を出せるかどうか?”については、事前にピグ・モグも”わからない”
と言ってます。どうやら、この回は”間違った魔法の使い方”と言うと大袈裟かも
しれませんが、そんなお話だったと解釈できなくもないのです。小猫がほしい・・と言う
願いも、みほちゃんにとっては、その時の夢な訳ですが、【時間の記憶と成長】と言う
言葉から考えれば、あまりに刹那的と言うか、直情(?)的なお願いな訳です。
一時的な今すぐ実現したい物欲・・・とでも言った方が分かり易いかもしれません。
(後半で記載する大切な気持ちの方には含まれる訳ですけど・・・。)
 
ですから、みほちゃんは、2度と”生き物”をスケッチブックから出したりはしない
と思います。魔法で出した物は、【夢の中】で手にしたプレゼントと同じ様なものです。
目が覚めると消えてしまう訳です。小学校3年生の女の子にはつらい試練です。
それこそ、本当の小学校3年生の女の子が見たら”つらさ”しか残らないかもしれない
お話な訳です。
 
ですが、 「消えてしまっても良いと言う前提でしか魔法を使ってはいけない・・。」
と言う事はだれでも自然に感じとれる訳です。夢はあくまで夢であって、いつか覚めて
しまうものだと気づくのと同じ様に・・・。
この時点で、魔法自体が消えてしまう日がいつか来てしまう事までは、気づかないで
しょうが、来たるべきその日に向けての ”試練のひとつ”を示す回でもあった訳です。
 
もちろん、そういう物欲的な使い方のみに魔法を使ってしまう少年少女達にも魔法が
与えられていた可能性はあります。それはそれで、そういう経験を積んでいくうちに、
「自分の好きな道=本当の夢」を見つけられる可能性は、やはり高くなる様な気もするし、
最終回の不思議さんのセリフからもそうだ・・・と感じ取れますから。
いずれにせよ、魔法が、自分の[現実未来の思考及び姿]に対しての事前シュミレー
ション的な役割を果たしている訳です。
喩えるなら、私は子供の頃に夜眠ると、今以上に良く【夢】を見ました。それに似てると
思います。願いがかなったりした夢もあれば、恐い夢もありました。そして朝起きれば
全て消えてしまう・・まさにそんな感じなのです。
そして、それらの【夢】は、将来起こる(かもしれない)現実へのシュミレーションに
なっていると思います。更に、それらの【夢】は見たくても見れなかったり、見たくなく
ても見てしまったりします。ファンシー・ララで、みほちゃんがもらった魔法もそれに
近かった訳です。しょせん現実として永遠に続くものではありませんでしたし、本人の
意志とは関係無しに手に入ってしまう(夢の様な)現実未来へのシュミレーション体験
だった訳です。
 
月並みな意見ですが、
 
ファンシー・ララでの魔法は、だれでも子供の頃に見た【夢】と同じ性質のもの
 
私は、そう考えてます。(ラストシーンも、お月様だしね・・・(笑))
つまり、その原点をかなりまじめに見詰め直し、そして掘り下げたのがファンシー・
ララでの魔法だったのだと言う意見な訳です。
 
 
2)主人公 みほちゃんにとっての魔法
 
”ララに変身する手段”と言ってしまえばそれまでですが、ララに変身しない話も
実際にはあった訳ですから、多分それだけでは無いと思います。そこらあたりについて
記載したいと思います。
 
元々、妄想癖があり、且つ夢と現実の区別をつけない様なところのある”みほちゃん”に
とっては(第1話:冒頭)魔法と【夢】とは全く同なのかもしれませんし、不思議さんが
少年少女に与える魔法は、前に記載した様に < 将来起こる(かもしれない)現実へ
のシュミレーション >になっていると私は考えています。 実際みほちゃんはララになる
前からある意味自分自身のあこがれである”ファンシーララ”と言う漫画を書いていた・・
と言う設定もある位ですから、【夢】を実現するための手段、それが魔法な訳です。
 
この設定になっていないと、みほちゃん本来の意志とか希望がねじまがって実現
してしまう様な描写が多くなります。魔法を持つ事で、みほちゃんが以前にもまして
駄目な人間になってしまうのでは??なんて視聴者が感じてしまう部分を極力小さく
する為には、ちょっとばかし極端に性格設定しておかないと、【夢】の実現どころでは
なくなってしまいます(笑)。制作サイドの方々は、魔法の効果が過剰に感じられない
演出とか設定に工夫されていたんだと思います。その結果、上記にも記載した「魔法
と【夢】の同一性」が他の作品よりは、許せる範囲(?)になっていたと思います。
 
【夢】でみた出来事が、子供の将来にどれほど影響を与えるのか?
については、私もはっきり知りませんが、もし、【夢】を一切見ない自分が居たら、
現実世界の苦みや苦しみに対する精神インパクトはもっと大きくなると思います。
現実世界以外での、トラブルに対する心の準備が全くできない訳ですから・・・。
 
みほちゃんの人生が魔法に左右されてしまう・・と考えるとちょっと問題あるかも
しれませんが、【夢】に左右されてしまう・・と言うと、多かれ少なかれ誰でも皆、同じな
訳ですから問題ないとも言えます。後にも記載しますが、スタッフの方もそこの
(魔法の)罪悪に多少気づいていたので、この様な意味を魔法に持たせ、そこを”
他の作品”以上に掘り下げたストーリを加えたのでは無いか??と私は思っています。
 
但し、みほちゃんにとってのそれを、そのまま映像にし続け、ラストに明かしてしまって
は(魔法=【夢】として終わらしてしまっては)面白くも無い・・・見も蓋も無い・・そう思い
ます。 この場合、監督やスタッフ、及び一部の熱烈なファンだけが絶賛する様なラスト
になりやすい訳です。
 
だから、アニメ以外も含む他のエンターテイナー(娯楽作品)と同様に、
みほちゃんの人生は、”魔法にかなり影響を受けた状態”で終わります。
ほとんどの視聴者にとって、「完全に魔法を忘れたみほちゃん」は、[みほちゃん]では
無い訳です。
それは、「今まで君の過ごしてきた時間は全て無意味なのですか??」と
言う問いにみほちゃんが首を振れる(無意味では無いと言える)のと同じ様に、
「今までララを見てきた時間は全て無意味なのですか??」と言う問いに
視聴者の”多く”(全てでは無い)が首を振れる様に創られていた(創ろうと努力した)
からだと思います。もちろん、ララを見た全員があのラストに満足している・・とは言え
ない様です。特に、本当の子供たちが見ていたら、きっと満足できない・・・。私自信も
そう考えていますが(最初にも言いましたが、これについては後に記載します。)、
ずっと作品を見ていてくれた視聴者に答えるには、あまりまじめにそこを追求しては
きっと良くない。私は、そんな意見な訳です。
どこまで掘り下げていくべきで、どこまで掘り下げないでそのままにしておくべきか??
そこのバランス点を、ファンシー・ララと言う作品はうまく調整したと思っています。
スタッフの方の苦慮の賜物だと思ってる訳です。
 
ララに変身できた事は、魔法が消えた後もみほちゃんの一部であっていてほしい・・
否定しないでほしい・・そんな気分が視聴者の中にある訳です。
ラストで、コミさんが、”みほちゃん=ララ”である事に気づきますが、
ここで、救われたのはみほちゃんだけでは無く、多くの視聴者達もまた救われている訳
です。
 
みほちゃん=ララである事に、同じ映像の世界の中にいる誰も気づかないで終わって
しまう様なラストでは悲しすぎます。 結果、無くした魔法を忘れようとし、微妙に【夢】
から冷めていく過程を描いておきながら、最後にコミさんとのやり取りが描かれ
お話が急展開してしまう訳です。結果、魔法=【夢】であったと言う流れが、
少し飛んでしまい、”みほちゃん=ララ”に戻ってしまいましたが、
そのあたりの急展開への持って行き方が、凄く良くできていた・・・そう思います。
だから、あのラストは私にとって非常に良く出来ていたシーンになった訳です。
 
月並み(台無し)になってしまうかもしれないラストを、構成、脚本、演出全ての面で
うまく30分まとめてしまった・・・・ 。凄いとやられたが同時に来ました。
 
つまり、設定上、みほちゃんにとっての魔法は、【夢】程度でしか無いはずだった
のですが、多くの視聴者を裏切らないラストを創る為に、みほちゃんにとっての魔法
が、”ララに変身する手段”に少し戻ってしまった訳です。ここを残念と思うか??
OKと思うかは人それぞれだと思いますが、私はOKです。
 
とは言うものの、ファンシー・ララの魔法自体が、”本当の子供達”には、そもそも
もの足りない効果しかない様なところがある訳ですから、子供達が見ていれば、
その魔法すら戻ってこなかった”あのラスト”を、中途半端な結末・・・と感じる
かもしれません。
 
あのラストは、文学的にOKな結末・・・そんなところかもしれません。
あれ以上やると、「少し飛んでしまい、”みほちゃん=ララ”に戻ってしまいました」
程度ではすまなくなりますからね。
 
あのラストOK派な私は、何度考えても「良くこのバランスが創れたなぁ・・・」と
今更ながら関心すると言う結論にしか行き着きません。
 
 
3)スタッフの方々の苦労?バランスの取り方
 
少し前述してきましたが、
”元々”妄想癖があり且つ夢と現実の区別をつけない様なところのある”みほちゃん”
”元々”ファンシーララと言う漫画を書いていた”みほちゃん”
なぜ、これらの設定があり、第1話からそれを描いたのか??そこについてもう少し
記載したいと思います。
 
この作品、”お約束”があります。言うまでも無いですが、みほちゃんが魔法の力で、
”6才ほど成長する事”です。この世界観及び設定そのものが”お約束”な訳です。
 
最初に言っておきますが、”このお約束”私は結構好きです。
毎回変身する必要は無いと思いますが、全く無いとさびしい・・と正直思います。
一方、文字通り”安易なお約束”では無く、設定にあわせたまま更に意味を追加した上で
”守ったお約束”になっていた・・と思います。 結果、ストーリ全体を通すと、他の作品より、
この”お約束”に深い意味を持たせる事が出来ていた様な気がするからです。
そうじゃないと、あのラストがあれほどの感動と驚きを与えてはくれない訳です。
 
 
つまり、ララでは、上記にも記載した様に”時間の記憶”と”成長”と言うテーマや
”魔法=【夢】”と言う様な意味を追加して、これ(与えられたお約束)を、その中の
ひとつ的な扱いにした訳です。そして魔法=【夢】とする為に、
”元々”妄想癖があり且つ夢と現実の区別をつけない様なところのある”みほちゃん”
”元々”ファンシーララと言う漫画を書いていた”みほちゃん”
と言う設定が編み出された訳です。
結果、”安易なお約束のままの形式を保った作品”の様で、実は、逆にうまくそれを
利用し、結構それがうまく機能した。 そんなシリーズになった訳です。
そう考えないと、”通常の考えでは表現できない様なお話の回”が多すぎます。
魔法少女物にしては離婚の話とか二股(みほ曰く不倫(笑))なんて話題が多するって
事です。もちろん、「これらも【夢】の延長上のストーリである」と直接的には言いにくい
ところがありますけどね(笑)。
 
まあでも、そういうところが、私の(心の)琴線に触れたんだと思います。結構ララ好きな
方はみんなその様な気もしてます。(違うかな??)
 
但し、この作品(ララ)って、与えられた設定をうまく使いすぎて・・・、
逆に与えられた設定そのものが、そのままになってる事が気になってしまう・・。
あるいは、気になるか??、気にならないか?のぎりぎりになってる。そんな思いも
あります。つまり、そういうバランスの取り方にもスタッフは非常に苦慮したのだな・・
と感じる訳です。
 
上記の様な、”与えられた設定にスタッフ達が苦慮し意味付けした内容”そのものが
ララの魅力そのものかどうか??は、私も言い切れないですが、ここに工夫したから
こそ、この作品の”各話30分単品の魅力”と”26話シリーズとしての魅力”がうまく
バランスとれた。少なくとも、私の理解ではそうなってます。
結果、魔法の扱いが断片的になりやすい部分も出てきてしまう訳です。
短編で見れば、魔法で変身する設定が無くてもなんとかなる話もでてきますから。
ピグ・モグもあまり役にたってないし・・・・(笑)。
でも、”シリーズとしての魅力追求型”な私にとっては、「守るべき(守らざるを得ない)
設定」が生かされ、それが”それなりに良く出来た シリーズをまとめる為の のりしろ”に
なった。そう思います。 上記にもちょっと書きましたが、ちょっとコミさんのラストが強烈
すぎて微妙な意味合いが飛んでしまいがちではあるのですが、”シリーズ全体”の
テーマと私が考える【魔法=夢】についても、それなりに決着はついたと考えています。
しかも、”魔法のひみつ=不思議さんやピグ・モグの謎等”にはわかりやすい決着を
付けなかったところも、気に入っていたりしてます。謎は解かれない方が美しいと言う
気持ちがちょっとありまして、その程度加減が私的にちょうど良いだけですけど。
 
もちろん、スタッフの方も、そこにはっきりとした回答を用意していなかったのかも
しれません。でも、その回答を考える事よりは、シリーズとしての面白さ と 30分短編
としての面白さ を追求する上で必要な部分を重点的に考え、そして実行した・・・
そこは間違いないと思っています。
なぞ解きにこだわるのは、ララの見方の本質と違いますしね。
    ↑これはこれで、踏まえた上でつっこむと結構面白いですけど・・・
 
つまり、スタッフの方々が苦労した(と思われる)いろんなところのバランス点が
私的には非常にOKである・・と言いたかった訳です。
 
 
4)大切な気持ちとは??
 
子どもにとっての今って、おとなにとっての今より、ずっと短くって
大事ですよね。うまく言えないですが、今にして思えば1日が異常に長く感じて
いた訳ですから、”あしたには良い事がある”って教えてもらっても、明日
まで我慢するのは結構つらくて、”今が楽しい方が良い”って感じだった訳です。
ですから、「数年後に良い結果がある(だろう)からこそ、今を精いっぱい生きる
価値があるんだ・・」って言う様なメッセージって、ほんとの子ども達にちゃんと
伝える事って可能なんでしょうか??って疑問も出てきたりする訳です。
 
ララの最終回の話な訳です。 私にとっては、アニメ以外も含めて、ここ数年経験
した事の無い感動のあるラストだった訳ですが、この感動って、それこそ本当の
小学校3年生位で理解できる様な気がしないのです。もうそのあたりは割り切って
このラストがあったんなら、それはそれで結構凄いです。
でも、視聴率的に考えると、私位の年齢で日曜日の朝にアニメ見る人も限られて
ますし、親子で見るにしてもまずは”子どもが見たいと思わないと話にならない”
訳ですから、打ち切りと思われてしまう様な話数(26話)で終わってしまったのも
非常に残念ですが、しょうがないんですかねぇ・・・って今更ながら思う訳です。
放送時間については、そんなに制作サイドの考えるように自由の効くものではない
のかもしれない・・・ なんて考えても、やっぱりなんかつらいですね。
 
もう少し続けばよかったなあ・・ それには子供達を引き付ける要素も
物語中(特に最初の方)に もう少し必要で、またそうすれば視聴率もあがって、
4クール続いたかもしれない。そんな気持ちがある訳です。
 
一方で、前述した様に子供達にはまだ理解する事が難しい(かもしれない) コミさんの
ラストのセリフに代表される様な 他のアニメ作品に(あまり)無い(と思われる)
”ララのテーマ”のひとつひとつが、薄まってしまう様な内容になってしまったなら、
私も 最後まで ララを見続けなかったかもしれない・・・ と言う「今更言っても仕方の
無い」心配も出てきます。
たとえ 今すぐ理解できなくても「見ていてくれさえすれば、いつか分かってくれるかも
しれない」テーマが多いだけに、それが、視聴率の為に薄まってしまうのはもったいな
いからです。
 
私の体験からすればアニメに限らず、「ちょっとわからない位のラストや内容を持つ
作品」の方が、後でいろいろ意味を考えましたし、ずっと印象にも残っているからです。
今の子供達にとっても そういうラストであり内容になってるんだと思ってます。
 
だからこそ、「見たいと思ってもらえないと話にならない」って気分にもなってしまう
訳ですね。今にして思い返すと、「そこをなんとか解決する(子供達にも見てもらえる)
様な物語も構成中には入れていたんだが、残念な事にうまく機能(?)しなかった・・」と
いう感じもします。もし私の見方(=意見?=気持ち?)が間違っていないのなら、
そこをがんばってほしかったし、次回作では そこもクリアした作品を創ってほしいなぁ・
とお願いしておきたい訳です。 もちろん”的外れ”なら、余計なお世話の意見になって
しまいますけどね。
 
 
但し、見ていてくれたとしても、まだ少し疑問(=不満?)が残ります。
前述した内容にちょっと戻りますが・・・、そこについて記載したいと思います。
 
私は・・、エンディングの歌詞にある”いつの日か いそがしい大人になっても、大切な
気持ちを・・・”と言うところに(凄く)こだわっている訳です。
ですから、その疑問とは、そのメッセージを伝えられる作品に最終的になれたんだろう
か??と言う思いが残ってるって事なのです。
 
全編通じて、(子供の頃の)”大切な気持ち”を抱きしめて、(みほちゃんが)
私たちにも、それらを思い出させてくれる様に、歩いていく(≒成長していく)事が
作品のテーマのひとつにもなっていたと思ってるからです。
 
それは、妙にかっぱとかネッシーにこだわる心理・とか、
昔大事にしていたがいつのまにか無くしてしまったおもちゃ(くまのぬいぐるみ)
への希薄な記憶(思い)・とか、
気になってしようがないある意味大人の都合的な話題に、普通なら首突っ込めない
ままにほったらかしにした気持ち・とか、
そういう ”いつのまにか忘れてしまう様な気持ち”達を間接的に魔法の力を借りながら、
みほちゃんが、それなりに解決(=気持ちの整理)をつけていく部分です。
現在リアルタイムで、こういう心理を持ってる子供達にこれらの物語を全部理解して
もらう事は難しいかもしれないです。でもかれらの”大切な気持ち”をちゃんと踏まえて
表現できていれば、いつか分かってもらえる・・そんなお話達がファンシー・ララには
多くありました。
 
そこで、最終2話も それらの範疇に入る事ができたんだろうか?と言うほんのわずか
の疑問が出てきてしまった訳です。実際に、上記の様な心理と同じ様に、
みほちゃんの得た魔法も、いつか失われてしまう夢の様なのものだった訳ですが、
コミさんは、そこで(ラストで)みほちゃんに言いました、「数年後に良い結果がある
(だろう)からこそ、今をいっぱい生きる価値があるんだ・・」と言う様なメッセージを・・。
もちろん、この内容も見ていてくれさえすればいつか分かってもらえる事です。
それは間違いないと思います。
 
でも、この状況下での本当の子供の大切な気持ちって言うのは、「”あしたには良い
事がある”って教えてもらっても、明日まで我慢するのは結構つらくて、”今が
楽しい方が良い”って感じだった・・」という最初に書いた内容なのかも
しれない・・・と思ってます。 もし、これが 本当の”大切な気持ち”
なんだとすると、コミさんのセリフは、本当の子供達が見ていたとしたら
”もの足りない中途半端なアドバイス”になってしまう可能性が高くなってしまう訳です。
私位の年齢にはよく分かるアドバイスだし、感動的なラストな訳ですけど・・。
 
要は、”大切な気持ち” を思い出させてくれる事が、ララのテーマのひとつでもあったと
思ってる訳ですけど、最終2話は、そこをちゃんと踏まえられなかったんじゃあないの
かな?と言う気がしてるって事なんです。 魔法がすっかり元のまま返って来てしまう
様なラストを望んでる訳ではないですが、そういう子供にとっての”大切な気持ち”を
表現できた上に、ラストのコミさんとみほちゃんのやりとりが成立していれば、もっと
よかったかもしれない・・って、そういう気分がちょっと残ってる訳ですね。
 
つまり、上記 2)中にも記載した様に、ただでさえ、「ファンシー・ララの魔法
自体が、”本当の子供達”には、そもそももの足りない効果しかない可能性」があるの
ですから、ここで記載した”大切な気持ち”位は考慮しておかないと、本当の子供達の
共感は得られないのでは??と思ってしまう・・と言う事です。
 
ララは終わってしまいましたし、そのラストに不満は無い訳ですが、次回作で
望月先生に同じテーマを扱う機会があるとするなら、そのあたりの解決(?)も
期待したい訳です。 もちろん、ララのテーマの重心が別のところにあったのなら、
余計なお世話なんですし、私の見方が間違ってる事になります。
 
 
 
う〜ん・・・ いざ、書き出してみると結構長くなってしいましたが、
以上が、私なりのファンシー・ララに対する感想及び意見の主なところです。
反論等ももちろんあるかとは思いますが、こういう見方もあるんだ・・と思って
頂ければ幸いです。
一方、自分でも理解できていない”答え”がこの掲載がきっかけで出てくるかも
しれないとも思っています。
*********************************
 
最後に・・・・・・、
この「こだわりの書12」に導いて下さいました。掲示板で知り合った方々、Jeanさん、
かっきいさん及びファンクラブ会長の田中(大場)さんにこの場を借りてお礼を
言いたいと思います。”どうもありがとうございました。”
もちろん、 望月さんの 次回作には期待してるわけなんで、こういう感想(意見?)
もあるって事で勘弁して下さい。
 
 
では、これにて・・・ 、 おしまい
 
ひやまじん  15th−Nov.−1998

Jean   jsuzuki@isl.melco.co.jp
99年3月13日(土)02時58分

ファンシーララについて再び

試食品のコーナーにも掲載されておりますひやまじんさん
の原稿を拝見しまして、また、下に書き込みされておられ
る感想を見まして、ファンシーララについて改めて思うと
ころなどを書きます。
ファンシーララをが好きな方は魔法の役割、魔法で得た経
験をプラスとらえて、また作品の魅力として評価されてい
ます。
ところが、ファンシーララで面白かった話というと、なぜ
か「みほの最初の1人旅」が挙げられる方が多いのも事実
です。
単品としての完成度は認めるものの、前記魔法物としての
ララの魅力は全く含まない番外編が面白かったものだとし
たら、ララの魅力というか受け手が面白がった部分という
のは魔法物という部分には無いんではないか、と思えてき
ます。
魔法物でありながら魔法物でない、という構造はロボット物
のふりをして、ロボットなんてどうでもよかったんだよーん
と、私小説をやっていた某作品をどうしても思い出してし
まうんですが、(庵野氏と対立するキャラクターであるとこ
ろの)望月氏は完成度に満足しておられるようですし、なん
とも不可解であるというのが私の見解です。

また、成長をキーワードにしている本作ですが、みほは実は
全く成長していない、ということはかっきいさんの原稿に詳
しいですが、この点もプラスに評価される方が多いです。
しかし、単に成長しないという現象を比較するとあの作品と
同じに思えるのです。
「みほの最初の…」では芸能界でいろいろな経験をして、がん
ばっているみほと全く無関係に、みほがうろうろします。
シリーズ初期ならともかく、真面目にシーケンシャルに見てい
る視聴者にとっては脱力物だったのではないでしょうか。
そのあたりの事情を、かっきいさんが考察されていますが、理
由はともかく、成長物語のふりをして実は成長物語ではない、
と考えることもできると思います。
そこまではいいすぎとしても成長物語として相当屈折したアプ
ローチであり、その気で見ているとストレスがたまるというの
が私の見解です。


沖倉須美
99年3月3日(水)17時59分

何も起こらない楽しさファンシー・ララ「みほの最初の一人旅」

みほちゃんが電車に乗っておじいちゃんちに行きました。
この話はまとめちゃうとそれだけだ。
みほちゃんは乗る電車に遅れたり間違えたりと苦労してしまう。魔法少女なんだから
魔法を使って解決すればよさそうなものなのだけど、そうはしない。それはそういう魔
法の使い方を知らないっていうよりも、電車に乗っておじいちゃんちに行くこと程度な
らばそんな力を借りなくても自分でできるって思っているからだ。
みほちゃんの苦労は本人には大変なことだし、御供の食いしん坊たちにはこの世の
終わりくらい辛かったかもしれないのだけど、見ている方は楽しい。誰もが道に迷ったり
電車を間違えたりはしてきたし、その結末がそう悲惨じゃないことを知っているからだ。
パズルを解くように問題は解決して行くはずだから。
平行移動で追いかけるときはちょっとつらいけど、電車の動きも丁寧に描かれていて楽し
いってこともわすれちゃいけない。
さて、みほちゃんの大冒険は無事に終わったけど、蚊取り線香に鼻をくすぐられながらエ
ンディングを迎えながら、ふと、この回で一番心に残るのはみほちゃんを見守る大人達の
視線だったかもしれないなあ、とも思えた。


Jean   jsuzuki@isl.melco.co.jp
98年10月21日(水)03時16分
"たびたびすみません"

羽根石さんの回について書き忘れましたが、羽根石さん
がバツイチという設定は、実は「マジカルエミ」の小金井
親子という前例があります。
しかし、「マジカルエミ」では、意識的にその関係につい
て触れることはありませんでした。
「説明すれば必ず嫌みになる」とは監督の言葉です。
「嫌味になるから避ける」「嫌味になるかもしれないが、
避けずに描く」この違いが作品の本質をよく表していると
思います。


Jean   jsuzuki@isl.melco.co.jp
10月21日(水)02時59分
"ララの脚本"

どうも、なんとも良くなかったところばかり書いてしまい
まして私のくせです、すみません。
羽根石さんの回は難しいテーマをごまかさずに、嫌味にな
らずに描ききったことが素晴らしいです。
難しいテーマが子供に簡単に理解できるはずがないという
当たり前のことを表現し、かつ、みほの内面の描写もきち
んと行っている。
一話もそうですが、セリフ一つとっても練り込まれている
感じがしました。
「お姉ちゃんの忘れ物」は魔法をご都合主義的に使ってい
るのですが、気にならないのが不思議です。
他の人物として過去の出来事を経験するというアイデアと、
みほのリアクションが楽しく、ラストも気が利いていて良
質なジュブナイルSFのようでした。
そして1話、これはララのお話の中でも一番好きかもしれ
ませんが、それは他の魔法少女シリーズの第1話と比較す
ると飛び抜けていいからでもあります。
映像では、「お母さんと一緒」でララと真美子が親子の関
係を他人の関係を借りて話すシーン、シチュエーション自
体どきどきものでしたが、ピンホールを通して日光が壁を
這うところなんか、来るものがありました。
いろいろありますが、きりが無いのでこの辺でやめます。


Jean   jsuzuki@isl.melco.co.jp
10月21日(水)01時47分
"ララら〜です"

どうも、はじめまして、Jeanと申します。
ララの評論を読めるところはないかな、ということで、
ここにたどりつきました。
#ひやまじんさんもいらっしゃいましたね。
望月氏のページなので望月氏について何かかけると良い
のですが、脚本の素晴らしさはララではじめて認識しま
した。
生で読んでみたいです。
羽根石さんの回(サブタイ失念)と「お姉ちゃんの忘れ物」
でしたっけ?あといくつかあったと思いますが、気に入って
います。
作画とか演出がとか色々言われておりますが、脚本がなって
ない話はダメでした。
最終話については別のBBSでいろいろ書きすぎて自分でも客
観的評価ができなくなていますので、やめておきます。
正直手放しで感動できた方が羨ましいです。
私も、クリィミーマミなどの作品でなんともいえない感動を
受けましたから(今見るとなんだこんなもんか、というとこ
ろも色々あるのに)。
シリーズ全体の感想ですが、シリーズ初期のもたつきが惜し
かったと思います。
第1話はすごく良かったのですが、あとが続かなかった。
最近2話を見たのですが、ほとんどクリィミーマミと同じ展
開で閉口しました。
1クールは大体似たような印象です。
連続物としてのひきが感じられず、テーマが見えなかったし、
伏線らしきものも後半で活かされていないと思います。
特に一般に評価が高い「ちび猫リルと魔法の秘密」は私は今で
も意欲は感じますが失敗していると思っています。
1クールが全部ダメと言うわけでもなく、2クールが全部好き
なわけでもないですが、私的にララは2クールですね。
ララの演出面では監督の大森氏が貢献しているのではないか、
と思うのですが、その辺いかがでしょう?
ほとんど話題になっていないようですが。


K.U.M   webmaster@kum-nana.net
10月14日(水)07時06分
"どうも初書込みです"

うう、ララの放送中にこのサイトにきてれば、、、、
ララ、終わってしまいましたね。いまだに、実感がわきません。
でも、最終話はよかった(泣)不思議さんの「忘れるのもひとつの方法だよ」と
コミさんの「笑ってごらん、みほ。あと何年かしたら、キミは本物のララになれるんだよ。」が、、、、
この二つのセリフが どれだけ心にひびいたことか、、、、。
EDの空中庭園でのシーン、あのしめ方もよかったですよね。
いつものEDと、コミさんの名セリフをあてはめてみると、うう、、、よいなぁ(TT)
ララは、毎回EDでなかせられた、よい作品でした(はやくLD全部はつばいされないかな?)

http://www.kum-nana.net/


ひやまじん
10月13日(火)00時33分
"過剰なる補足・・"

一言コメントする度に、自分で落とし穴掘って、再度這い出してる様な感じに
なってますが、また 少し補足させて下さい。どこを補足したいのか??と言うと
前回書き込んだ、「エンディングにある”いつの日か いそがしい大人になっても、
大切な気持ちを・・・”ってところに(凄く)こだわっていて、
そのメッセージを伝える事に”本当に”成功していたのかな??と言う思い
(=疑問?)」の部分についてです。
全編通じて、(子供の頃の)”大切な気持ち”を抱きしめて、(みほちゃんが)
歩いていく(≒成長していく)事が作品のテーマのひとつになっていたと思って
ます。たとえば、妙にかっぱとかネッシーにこだわる心理とか、昔大事にして
いて、いつのまにか無くしてしまったおもちゃ(くまのぬいぐるみ)への希薄な
記憶とか、気になってしようがないある意味大人の都合的な話題に、普通なら
首突っ込めないままにほったらかした気持ちとか、そういう ”いつのまにか忘れて
しまう様な気持ち”を、魔法を持ったみほちゃんが、それなりに解決(=気持ちの
整理)をつけていく訳です。私たちにも、もう一度それらを思い出させてくれる様
にです。現在リアルタイムで、こういう心理を持ってる子供達にこれらの物語を
全部理解してもらう事は難しいかもしれないです。でもかれらの”大切な気持ち”
をちゃんと表現できていれば、いつか分かってもらえる・・そんなお話が
ちりばめられていた訳です。
そこで、最終2話も それらの範疇に入る事ができたんだろうか?と言うほんの
わずかの疑問が出てきた訳です。確かに、上記の様な心理と同じ様に
みほちゃんの魔法もいつか失われてしまう類のものだった訳です。そして、コミさんは
みほちゃんに言う訳です、「数年後に良い結果がある(だろう)から
こそ、今をいっぱい生きる価値があるんだ・・」と言う様な事を・・。もちろん、
この内容も見ていてくれさえすればいつか分かってもらえる事です。
それは間違いないと思います。
でも、この状況下での本当の子供の大切な気持ちって言うのは、「”あしたには良い
事がある”って教えてもらっても、明日まで我慢するのは結構つらくて、”今が
楽しい方が良い”って感じだった・・」という最初の書込みにある内容なのかも
しれない・・・って私は思ってる訳です。 もし、これが 本当の”大切な気持ち”
なんだとすると、コミさんのセリフは、本当の子供達が見ていたとしたら
”もの足りない中途半端なアドバイス”になってしまう可能性が高い訳です。
私位の年齢にはよく分かるアドバイスだし、感動的なラストな訳ですけど・・。
要は、”大切な気持ち” を思い出させてくれる事が、ララのテーマだった訳です
けど、最終2話は、そこを掘り起こせなかったんじゃあないのかな・って気が
してるってなん事です。 魔法がすっかり元のまま返って来てしまう様なラストを
望んでる訳ではないですが、そういう子供にとっての”大切な気持ち”を表現でき
た上に、ラストのコミさんとみほちゃんのやりとりが成立していれば、もっと
よかったかもしれない・・って、そういう気分がちょっと残ってる訳です。
ララは終わってしまいましたし、そのラストに不満は無い訳ですが、次回作で
望月さんに同じテーマを扱う機会があるとするなら、そのあたりの解決(?)も
期待したい訳です。 もちろん、ララのテーマの重心が別のところにあったのなら、
余計なお世話なんですし、私の見方が間違ってる訳ですけど。
また長い書込みです。すみません・・。


ひやまじん
10月11日(日)22時37分
"なんだか・・不思議な・予感??"

>管理人(大場 打太)さん
>差し支えなければ、今までの書き込み内容の一部を編集部でピックアップさせて
>いただいて、冬コミ向けの会誌に掲載させていただきたく思っています。
>いかがでしょうか?
わざわざ ご返事、どうもありがとうございます。後、掲載の件については、全然
構いませんので、どうぞ煮るなり焼くなり(笑)、御自由にお願いします。
ここへ書き込んだ時点で、著作権(の様なもの)は、管理人さん(この場合は大場
さん)帰属するんだと思って書き込ませて頂いてますから。<− 生意気な意見・・
但し、正直に言いますと、私自身が望月さんの関わった作品として注目し、ララを
見てきた訳では無くて、幸運にもララを偶然見てしまって、いつのまにか、ここの
掲示板にも書き込みをしてしまった・・と言う状態なんですね。
そんな立場の意見が掲載されて本当に良いのかな・って心配は(ちょっとばかり)
あります。だからまあ、 そんな者の書き込みで構わないのなら全然OKですよ。
ただ ちょっと付け加えると、私の書込みは・・、
エンディングにある”いつの日か いそがしい大人になっても、大切な気持ちを・”
ってところに(凄く)こだわっていて、そのメッセージを伝える事に”本当に”
成功していたのかな??と言う思い(=疑問?)だけの内容の様な気もします。
大場さんが、そこに注目して下さってるのかどうかわかりません。
でも ピックアップしだいでは、かなり”実も蓋も無い内容”になるかも(笑)。
まあ、それもおもしろいかな ってところですから、やっぱり問題ないんですけどね。
自分でも理解できていない”答え”がその掲載がきっかけで出てくるかもしれない
ですし、また、そういうところが ララの良いところなのかもしれませんから。


大場打太   t-isao@pp.iij4u.or.jp
10月11日(日)21時19分
"お気にせずに書き込みを"

当HPの管理者の大場です。
>ひやまじん さんへ
どうぞお気になさらずに、遠慮無く書き込みをして下さい。
差し支えなければ、今までの書き込み内容の一部を編集部でピックアップさせて
いただいて、冬コミ向けの会誌に掲載させていただきたく思っています。
いかがでしょうか?


ひやまじん
10月11日(日)20時15分
"火急なる てぇーせぇー"

すみません。
>「ダグオン」で大変お世話になった谷口悟朗氏(「ガサラキ」の助監督)よりの
>たっての依頼で「ファンシーララ」の後番組「ガサラキ」の平安編:連続2話分
>の絵コンテを担当することとなった。
って事ですね。
”コメントのようなもの”を今拝見させて頂きました。
従って、下記の書き込みの”PS以下の部分”は、かなりばかな事書き込んで
ます。 すみませんです。悪気は無いです。ご勘弁を・・・。


ひやまじん
10月11日(日)20時04分
"自分の書き込みに後ろ髪引かれて、又!ファンシーララに!愚かなる かんそー"

もう少し続けばよかったなあ・・ それにはもう少し子供達を引き付ける要素も
物語中(特に最初の方)に やはり必要で、またそうすれば視聴率も少しあがって、
4クール続いたかもしれない。そう言う気持ちが背景にあります。一方、子供達
にはまだ理解する事が難しい(かもしれない) コミさんのラストのセリフに代表
される様な 他のアニメ作品に(あまり)無い(と思われる)”ララのテーマ”が
薄まってしまう様な内容だったなら、私すら 最後まで ララを見なかったかも
しれないって言う「今更言っても仕方の無い」心配もあります。たとえ 今すぐ理解
できなくても「見ていてくれさえすれば、いつか分かってくれるかもしれない」
テーマだけに、それが薄まってしまうのはもったいないからです。私の体験から
すればアニメに限らず、「ちょっとわからない位のラストを持つ作品」の方が、後で
いろいろ意味を考えましたし、ずっと印象にも残っているからです。今の子供達に
とっても そういうラストになってるんだとわたしは思います。
だからこそ、「見たいと思ってもらえないと話にならない」って気分になってしまう
訳です・。今にして思い返すと、「そこをなんとか解決する様な物語も構成中には
入れていたんだが、残念な事にうまく機能(?)しなかった・・」という気も
します。もし私の見方(=意見?=気持ち?)が間違っていないのなら、そこを
がんばってほしかったし、次回作では そこもクリアした作品を創ってほしいなぁ・
とお願いしたい訳です。 もちろん”的外れ”なら、余計なお世話の意見になって
しまいます。
前回の書き込みを自分なりに整理したつもりですが、まだ分かりにくいかも
しれません。 すみません・・・。
PS:次回業務は、ガサラキの絵コンテですかぁ!! どうしましょう見てませんよ。
途中から、コンテの内容をララの絵コンテに差し替えてサンライズに納入するとか
・・だめかな? 不思議さん登場させちゃうとか・・ 無理かな?
(だめand無理に決まってる・・って分かってるのに書いてみたりして(笑))
しかし、アニメの業界に詳しくない私ですが、こういう事ってよくある話なの
ですか?? まあ、工数的に考えれば、ララが4クール続く可能性も含めて望月さん
のスケジュールが決まっていたはずで、それが現在空いちゃってると思いますから
うまい人材利用かな・・とも思います。でも 望月さんのファンにとっては複雑な
気分ですよね・・・。さすがに 、私ですら複雑and怪奇(?)な気持ちですよ。
日曜朝9:30からのアニメ視聴者人口を減らさない為のバンダイビジュアルの
作戦だったりして・・ もしそうなら、ある意味 おそるべし・・・(笑)。


ひやまじん
10月7日(水)22時11分
"頭も冷えたところで・・・私に取っての裏感想"

子どもにとっての今って、おとなにとっての今より、ずっと短くって
大事ですよね。うまく言えないですが、今にして思えば1日が異常に長く感じて
いた訳ですから、”あしたには良い事がある”って教えてもらっても、明日
まで我慢するのは結構つらくて、”今が楽しい方が良い”って感じだった訳です。
ですから、「数年後に良い結果がある(だろう)からこそ、今を精いっぱい生きる
価値があるんだ・・」って言う様なメッセージって、ほんとの子ども達にちゃんと
伝える事って可能なんでしょうか??って疑問もあったりする訳です。
ララの最終回の話な訳です。 私にとっては、アニメ以外も含めて、ここ数年経験
した事の無い感動のあるラストだった訳ですが、この感動って、それこそ本当の
小学校3年生位で理解できる様な気がしない訳です。もうそのあたりは割り切って
このラストがあったんなら、それはそれで結構凄いです。
でも、視聴率的に考えると、私位の年齢で日曜日の朝にアニメ見る人も限られて
ますし、親子で見るにしてもまずは”子どもが見たいと思わないと話にならない”
訳ですから、打ち切りと思われてしまう様な話数(26話)で終わってしまうのも
非常に残念ですが、しょうがないんですかねぇ・・・って今更ながら思う訳です。
放送時間ってのは、そんなに制作サイドの考えるように自由の効くものではない
んですかね・・・なんて考えても、やっぱりなんかつらいですね。
ほかの掲示板に書き込める様な感想で無いので、ここに書きこんでしまいました。
でも、望月さんの 次回作には期待してるわけなんで、こういう感想(意見?)
もあるって事で勘弁して下さい。すみませんです。


大場打太   t-isao@pp.iij4u.or.jp
10月2日(金)00時09分
"厳しいご質問ですね"

どうも。当望月FCのHPの管理者の大場です。
最終回を適切にご評価下さり、どうもありがとうございます。
さて、ご質問に一応解答のようなものを・・・。
「望月智充ファンクラブ」的にはあまり認めたくないことですが、
客観的にみますと、打ち切りといわれても仕方が無い状況の下で
26話で完結ということになりました。残念ですが・・。
でも、惜しまれつつ終了するというのも、考えようによっては
むしろ良かったのかも・・・(負け惜しみのようですが…)。
そのうち直接お聞きしようとは思っていますが、
望月さんも「ララ」の出来に関しましては、それなりに
かなりご満足されておられるようですし・・・。
解答になりましたでしょうか?


愛野どれい
9月29日(火)23時36分
"ララ〜"

初めまして、愛野どれいと申します。
ララ最終回良かったですねぇ。
で、ララは打ち切りだって言う人がいたんですけど実際のところどうなんでしょう?


BLACKY CHRO.   y_kuroda@mse.biglobe.ne.jp
9月28日(月)00時30分
"ララ最終回"

いや〜、すごかったですね(^^;)
24話で一旦区切りを付けて以降の25、26話の構成は見事というしか・・・
感想としては「対象年齢高目だなぁ〜」と思いましたが。(子どもは素直に「ララは帰ってこられなかったの?」と思っちゃいそうな気がします)
26話は演出やアングルにも非常に凝ったカットが多く
単話で見ても見ごたえの有る非常に良い話でした。
次はいよいよP9の最終回が近づいてますね・・・
こちらも眼が離せません。

http://www2s.biglobe.ne.jp/~MXTV/


BAB   mokkin@netlaputa.ne.jp
9月28日(月)00時08分
"ララ"

ララの最終回、様々な意見があると思いますが
BABとしては、すごく良かったと思います。
皆さんはどうでしたか?
ちょっと気になったのは、あいかわひろや(漢字が解りません)
このキャラだけ、煮えきれなかったかなぁ?

http://www.netlaputa.ne.jp/~mokkin/bab.html


小西慎一   skonishi@dd.iij4u.or.jp
8月19日(水)21時52分
"ファンシーララの素晴らしさ"

般若原美津太さん、
自説の解説は勘弁してください。10倍の文になりそうですから:-)
「ファンシーララ」では16話の「みほの最初の一人旅」が今までの放映されたもののなかでは一番好きです。
あ、村井さだゆきさんの脚本ですけど:-)
僕の中ではこのシリーズは、佐々木昭一郎「川の流れはバイオリンの音」シリーズ
(NHK)に次ぐ位置にあります。僕は実写もアニメも同じく映像作品として区別していません。
感覚的にしか言えませんけど、乾いた心に染み込んでゆくような良さがあります。
僕はもう十分に映像作品を観たので、あとは繰り返しそれを観たり、それについて語ったりという風に残された人生を送ろうと思っています。
ではいつかどこかで

http://www.dd.iij4u.or.jp/~slpnishi


般若原美津太
8月18日(火)21時16分
"恐縮です、小西さん"

小西慎一様 日頃、「平易で明瞭な文章で読み手に自分の意見を理解納得させる」事が重要だ、と念仏のように唱えるのが仕事になっているので、つい失礼してしまいました。それにしても、「これで最後」なんておっしゃらずに、作家・演出家としての望月監督の仕事には注目し続けていただきたいものです。某A野何ぞより、実写を撮ってほしいひとだと私は思います。


BLACKY CHRO.   y_kuroda@mse.biglobe.ne.jp
8月18日(火)01時10分
"今週のララよかったですね。"

みほちゃんと周囲の人たちとの関係が非常に巧く描写されていたと思います。
最後のシーンでは私も泣いちゃいました(T^T)

http://www2s.biglobe.ne.jp/~MXTV/


かっきい   kakitou@tkb.att.ne.jp
8月17日(月)08時55分
"コミケ、お疲れさまでした!"

大場打太さんをはじめとする望月FCのみなさん、コミケ、本当にお疲れさまでした。
いやー、暑かったですね。僕なんか死ぬかと思いました(^^;
聞けば、売上も好調だったとのこと。
是非この調子で赤字削減ができればいいですね。
影ながら応援しています。
PS.僭越ながら、「こだわりの書11」に「ララ」の原稿を書かせてもらいました。
読んでいただいた方、いらっしゃいましたら、
ご意見、感想を教えてください。


小西慎一   skonishi@dd.iij4u.or.jp
8月13日(木)21時24分
"お呼びですか?"

こんにちわ、般若原美津太さん
もしかして、お呼びですか?
色々と思っていた事を濃縮した上に圧縮したらああなってしまいました。
難解な文章で自己陶酔しているみたいなものになっちゃいました。
作品は日常と人物を丁寧に描いていて、とても好きです。この作品を観たときには、私の最終的に求めるものが実現していると脳天直撃でした。
あちこちで映画やアニメを語ったり書いたりしてきましたけど、それはどこかしら作品で満たされなかったからだったようです。「ファンシーララ」は僕に最終的な満足を与えてくれました、ってまだ終わってませんけど。
「ユンカース カム ヒア」も観る事が出来たし、まあビデオ化の野望は残るとしても、「ララ」で僕は成仏します。
佐藤順一監督「ユンカース カム ヒア」上映会で落ち着かず、お返事が遅れた事をお詫びします。
あ、みなさまも是非下記サイトへ

http://www2s.biglobe.ne.jp/~c-sphere


般若原美津太
7月31日(金)09時05分
"……むむむ。"

言いっ放しでは失礼、ご高説をなんとか理解せんと、貴方のサイトも覗かせていただいて、一晩、苦心惨憺読み進み(すみません、劣悪な読解力しか持ち合わせていないもので)、ほんのちょっとわかったような気がしますが……、やっぱり限界です。御容赦ください。平に平に。

般若原美津太
7月30日(木)23時05分
"……で、それで?"

当方、粗雑な思考回路の持ち主なもので、ご高説理解できません。もう少し分かりやすく説明していただけないでしょうか。


小西慎一   skonishi@dd.iij4u.or.jp
7月29日(水)21時28分
"魔法の終点〜ファンシーララ"

魔法は既に実現していたのだ。
私たちは魔法に何を求めていたのか。
魔法は既に消費の模倣でしかない。金銭利用の自由が効かない年齢の人間に
とって、消費生活は魔法だっただけだったのだ。その資格が大幅に下がった今、
そこに私たちは立っている。
「華麗なる成長」ならば、いくらでも実現させているではないか。アクセサリを身につけ、髪を染め、いくらでもその辺を歩いているではないか。魔法とは貨幣のこと
だったのだ。そして、魔法とは金銭で実現する卑近な欲望だったのだ。
それを知った以上、私たちは無邪気に魔法を求めるわけにはいかないだろう。その
実現が本人の稚気を表現する以上。自己破産するマッチ売りの少女、豊胸手術を
する人魚姫。そういう醜悪さを嫌というほど毎日観ている私たちに「成長の魔法」は如何ほどの説得力があるのだろうか。イノセントの表現だけでその本人をも食い破
る貨幣の魔法をしのぐ「魔法」を誰が今、想像できるであろうか。否。魔法は既に失効しているのだ。
魔法によって彼女、みほは何を得ているのであろうか?CDが出る、TVに出る事で彼女自身は何を得ているのであろうか?相変わらず母親は出先だし、父親は本に埋
もれている。姉は普段は彼女の生活圏内にはいない。幼なじみとの関係も何も影響を受けない。彼女が歌手として成功することはプロダクションの社長の何かを満たす
のかもしれないが、それとても彼女の私生活の欠落を埋めるものではない。
魔法はみほ、彼女のひとときの「妄想」の単純な実現でしかない。その稚気は現実の様々な関係性を変えるものではない。彼女自身は魔法と無関係な現実的な手続きで
つながった人、会えた人との関係性の中でのみ変化し、あるいは影響を受けるのだ。そういう中で魔法はみほにとって、何なのだろうか。既に彼女の生活の中で失効しているではないか。
描かれる街の風景は素晴らしい。ありふれた坂のある住宅地の光景なのだが、私が
いままで出会った映像の中で最高のものだ。近郊型住宅地の描写に成功した最初の
映像ではないかと思う。この絵の担当者は最高に評価されるべきだ。特に塀の描写は特筆もの。単なる情景説明を超え、ひとつの作品足りている。
この風景の描写は実はこの作品の主張ではないかと私は思っている。現実的な生活
地点の「美しさ」、そこにすべては結実してゆくはずだ。
そこに住み、暮らす人々に稚気の実現たる魔法は無効である。彼女自身がそういう場所の存在である以上、彼女が単純な稚気から脱却すれば、それ以外に「成長」も「夢の実現」もありえないのだから、彼女は最終的に「夢」のためには「魔法」を返納する以外にはないだろう。
この作品は魔法の終点を描く最初で最後の作品にあるような気がしてならない。
上記のようなへ理屈以外に、映像で語るという事を意識している、この作品は
「映画」なのだと言っておきたい。話題だけの封切りを追うだけが映画ファンでもあるまい。こういう作品を楽しめないことは映画ファンの不幸だと言い切っておく。
じゃあ、ねえ。

http://www.dd.iij4u.or.jp/~skonishi


まみ   ayamami@anet.ne.jp
7月26日(日)05時38分
"嬉しいです!!(*^-^*)"

クリィミーマミのHPからファンシーララのHPをたどり、ここを知りました★
望月さんは、マミから知ったのですが。制作スタッフなどを気にしながら作品を
見るようになったのも、マミからです。
それ以来、どうも好きになる作品に望月さんが関わっていらっしゃることが多く
て(^^;
あたしは、もしかして望月さんの作品が好きなのではないか・・・?と(笑)
最近になって思い知ったわけなんですけど(^^;

こんなFCがあるなんて、知りませんでした!
なんか見つけたとき、嬉しかったです★
前身の「マミFC」は知ってましたけど★(^^)

これからも、頑張ってください♪
夏コミ、時間あったらそちらのスペースへ寄らせていただきます♪

http://www.geocities.co.jp/Playtown/6711/


とらこ   hyoki@leo.bekkoame.or.jp
5月27日(水)17時01分
"掲示板設置おめでとうございます(^^)"

設置おめでとうございます(^^)
私もファンシーララみてます〜〜。クリーミーマミ世代(ってなんんじゃ)な
私はとってもなつかしく&たのしく見てます。純粋にかわいい〜〜〜って楽しめるし、
最近ではめずらしく安心してみれるアニメの一つです(^^
悲しいのは、BSが入らないので、『プリンセスナイン』がみれない事です……(泣)
折角の望月カントクの作品なのに〜〜〜〜!!!はやくビデオにならないかな〜と
心待ちにしてます〜〜〜


toku   JZA00256@msn.com
5月25日(月)16時57分
"同じく「チビ猫リルと魔法のひみつ」"

ピグとモグが魔法の効力に対し「ちょとどうかな」と懐疑的な態度を取っているのを意に介さず、ひたすら唱えられる「だぶだぶ〜」の呪文と輝く魔法の光に笑わされました。魔法解除の呪文が「ぶかぶか〜」なのも面白いです。


MAX
5月24日(日)10時34分
"今日の「ララ」"

「チビ猫リルと魔法のひみつ」。魔法に関する秘密・ルールが次第に明らかになりつつあるますね。「ぶかぶか」で、リルが首輪だけ残して消滅してしまうあたり、あまりのリアリティーに鳥肌が立ってしまったのは、私だけでしょうか。これは、従来の魔法少女物の概念そのものを根底から考え直す必要に迫られそうです・・・または、これが究極の魔法少女物アニメなのかもしれません。それにしても、恐ろしいのは、望月氏です。今後の展開はいかに・・・。忘れていましたが、作画監督はOPの作画も担当されている大西さんで、作画も良かったですね。それでは、また。



望月FCトップ・ページへ